昭和第一学園高等学校

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校長だより

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校長だより№40 最近の行事から 2019年02月12日
 

校長だより№40 最近の行事から

2019年2月12日 校長 森田 勉

 

◎ 2019年度オーストラリア海外語学研修説明会

 先週の2月4日(月)の放課後、標記の説明会が行われました。当日は、20名ほどの高校1年生が集まりました。みんな熱心に説明に聞き入っていました。そこで配られた『SDG STUDY  TOUR  -A Collection of Essays-』に昨年8月の語学研修に参加した生徒たちの作文が掲載されていました。それを読んで、改めてこの語学研修の意義を再確認できました。そこには8名のエッセイが載っていましたが、そのうちの高校1年生女子の感想を紹介していきましょう。

 行く前には「最初は行っても何も変わらないだろうし、英語も好きじゃない。部活の合宿に参加したなどマイナスのイメージしかありませんでした」とい思っていた生徒が、帰国後には「語学研修に行かなければできなかった経験をたくさんさせて貰えたのが凄く良かったです。チャレンジ精神、英語の聞く力と話す力も強化できて自分に自信を持てるようになれました。・・・・・次は一人で行きたいと思います」という言葉を残しています。他の生徒たちも、行く前の不安や自信のなさが、語学研修を経験したあとでは、挑戦することの大切さ、大学に進んで留学してもっと学びたいという強い意欲、そして何よりも自分に自信を持てた、といった自己肯定感を持てるようになった変化を述べています。

 可能であれば、より多くの生徒がこのプログラムに参加して、こうした体験をしてほしいと思っています。そのために、また新たなプログラムの開発を考えていきたいと思っています。

 

◎ ロードレース

 先週の2月5日(火)に昭和記念公園で恒例のロードレースが行われました。この行事は、体育の授業の一環で実施されています。男子生徒は8キロ、女子生徒は4キロを走るレースです。

 高校1年生は最初の、そして2年生にとっては高校生活最後のロードレースとなりました。各自の目標-その目標は設定記録を更新することでもいいし、完走することでも、あるいは仲間とともに励まし合って張り切ることでも良いともいます-をやり遂げ、達成感を持つこと、その達成感は個人ももちろんですが、その個人がそれぞれ頑張って、集団としても満足感の持てるものであることが大切だと思っています。その意味では、爽やかなレースを展開して無事に終了して、とても良いロードレースであったと言えます。生徒のみなさんには、この達成感や充実感を今後の高校生活に存分に活かしていってほしいと願っています。

 ところで、みなさんは、日頃ランニングをすることはありますか? ある脳科学者によると適度なランニングが、前頭葉を刺激して記憶力にも好影響を及ぼすと言うことですから、チャンスがあれば軽いジョギング程度はやった方が良いかもしれません。私も高校時代は運動部に所属していたので、時間があれば走っていました。歳を重ねるにつれてその絶対量は確実に減っています。たまにはサッカーのレフェリーをすることもあるので、また健康のためにも、無理をしない範囲で少しは走った方が良いと思うのですが、なかなか勇気が湧きません(苦笑)。

 当日は、PTA広報委員さんにも、レースの模様を取材しにお越しいただきました。ゴール間近の沿道で最後の力を振り絞る生徒たちに「がんばれ!」という声援までいただきました。本当に有り難うございました。

 

◎PTA各委員長慰労茶話会

 2月9日(土)は、日本全体を記録的な寒波が襲い、立川周辺もみぞれまじりのとても寒い日でした。しかし、その寒さを忘れさせるようなホットな会がありました。PTA会長をはじめとした本部役員さんたちの計らいで、今年1年間活躍してくださった、PTAの各委員長さん(または代行の方)を慰労する茶話会が、午後3時から本校食堂で行われました。

 前にもご紹介したことがあると思いますが、本校PTAには、広報委員会、講演委員会、研修委員会、11支部父母の会委員会、菊葉祭委員会、卒業準備委員会の各委員会があります。その委員会は、各クラスから選出された方たちがメンバーになっています。その各委員会の代表の方たちに今年1年の感謝を込めての茶話会が開かれた、というわけです。

 食堂のシェフが作ってくれたデザートに舌鼓を打ちながら、1年間の苦労話や楽しい話が交わされて、とても心温まる会でした。みなさんのおかげで、来年につながる素晴らしい活動ができたものと深く感謝しております。この場を借りて、御礼申し上げます。どうも有り難うございました。そしてお疲れ様でした(正式には5月の総会まで任期がありますが)。あわせて、この会を企画してくださった本部役員の皆様にも厚く御礼申し上げます。

 

◎一般入試

 2月10日(月)と11日(火)の両日、一般入試が行われました。10日は1,167名、11日は809名の受験生が緊張した面持ちで受験に臨んでくれました。すべての受験生が気持ちよく受験できるように準備、運営したつもりですが、いかがだったでしょうか。大勢の中学生が来校した両日でしたが、おかげさまで無事に終了することができました。しっかりと受験してくれたみなさんに感謝申し上げます。

 本校とのご縁があるなしにかかわらず、中学生のみなさんたちには、無限と言っていいほど大きな可能性が秘められています。その可能性を引き出して大きく成長することを願ってやみません。寒い季節が過ぎれば、心が躍る、暖かい春がやってきます。それはみなさんの持っている可能性が開花することを予感させるものです。今回の受験も、みなさんが10年先、20年先に自分の明るい未来を自分で切り拓いていくことに活きる、貴重な経験の一つになることでしょう。みなさんに輝ける未来が待っていることを心から祈っています。

 
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№39 日本工学会主催の公開シンポジウムに参加して 2019年02月04日
 

 

2019年2月4日 校長 森田 勉

 

先週の2月2日(土)に日本大学理工学部で行われた「我が国の科学技術人材育成の現状と課題」と題する公開シンポジウムに参加してきました。メインテーマは以下の3つでした。

(課題)

     1.我が国の科学技術人材育成における課題は解決に向かっているのか

     2.我が国の将来を担う科学技術人材が育つためには何が必要か

     3.科学技術立国を我が国が標榜し続けるために人材育成に求められることは

 

 13:30~16:20までの講演(講演者は5名)と16:30~17:40までのパネル討論というプログラムでした。ここでは「我が国の科学技術人材育成に求められること」というテーマで行われたパネル討論を中心に紹介しておきましょう。以下はそこで出された主な意見です。

●MITをはじめとする米国大学院では、技術開発者として一生やっていける人材育成教育が行われている。そこでは、基礎学力の広さと深さが求められる。授業の重み、教員の熱意、学生のキャリアアップを目指す高い意欲、熱い討論、そして学生、教員共に感じる強いプレッシャー等が特徴である。若いときに、将来本当に役立つ知識が得られるように集中的体系的教育が行われている。「凡人を一人前の研究者・技術開発者として一生やっていけるように訓練する教育」である。

●アメリカばかりでなくイギリスでも、学生は相当努力をしないと学位が取れない。

●今年度の文部科学省からの「卓越大学院プログラム」は、凄い能力を持っている人を凄い教育をすることで社会を変えることにつながるプログラムであると言っていいのではないか。卓越した博士を育てるプログラムである。

【卓越大学院プログラム】文部科学省が平成30年度より、実施したプログラム。各大学が自身の強みを核に、これまでの大学院改革の成果を生かし、国内外の大学・研究機関・民間企業等と組織的な連携を行いつつ、世界最高水準の教育力・研究力を結集した5年一貫の博士課程学位プログラムを構築することで、新たな知の創造と活用を主導し、時代を牽引する価値を創造するとともに、社会的課題の解決に挑戦して、社会にイノベーションをもたらすことができる博士人材を育成する事業である。(文部科学省HPより)

●「卓越大学院プログラム」は米国ではすでにいつでもやられていることである。

特別な才能を持っている人、“天才”は、どこでも育つ。凡人を一人前にする教育が求められている。そして、Ph.D.(博士号)を持つということは、その分野で一応の基礎はできている、ということである。

●各学協会での30代の層が薄くなってきている。大学院のマスター時代には入会するが、日本ではドクターに行く人が少ないことが原因であろう。研究でない部署に配属されると脱会してしまう現状にある。会社に閉じこもっていて学ぶ場がなくなっている。

●企業においても継続教育の必要性は認識されてきており、「産学連携事業」もその流れであると言える。かつては、企業が人材育成教育を担っていた。しかし今、「働き方改革」の時代状況もあり、企業内でOJT教育をすることが少なくなってきている。大学でしっかりと基礎基盤的な教育を受けて、学生がきちんと学ぶ時代になってきていると言える。

●もっと根本的な課題がある。高校生の「自己肯定感」が諸外国に比べて日本の場合は低いことが報告されている。これが低ければ外に打って出ていくことや、リスクを伴う起業に挑戦することはできない。初等・中等教育を通じて、もっと「自己肯定感」を持てる若者を多数育てる必要がある。

●(グローバル時代の)我が国のための人材育成というと、若者を海外に送り出していくという発想がすぐに浮かぶが、海外の人材をいかに受け入れて、またどう育てるかという視点も大事である。

 

 このシンポジウムに参加しながら、高校教育はいかにあるべきであろうか、と考えていました。科学技術分野だけでなくあらゆる分野において、「普通の人を優れた人物に育てていくこと」が教育の原点であり、私たちの使命であるのだと思います。もちろん、私立高校なので優れた実績(進学実績やスポーツの大会実績など)を上げることは大事なことです。しかし、そればかり追い求めすぎずに、基本的な視点を忘れないようにしないといけないなと、改めて考えさせられたシンポジウムでした。そしてまた、ここでも「自己肯定感」の大切さが意見として出されていました。多感な高校時代に、いろいろな活動や仲間との切磋琢磨を通して、自分をまっすぐに信じることができる力(自信)を身につけることは、とても重要なことです。そのためにも学ぶことが楽しいといった学園になるよう、これからも邁進していきたいと思っています。

 
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校長だより№38 賀詞交換会 2019年01月29日
 

 

2019年1月29日 校長 森田 勉

 

 今日も冷たい風が吹いています。加えて記録的な乾燥状態も続いています。お身体を壊されていないでしょうか? 本校では高校1年生の普通科で、先週金曜日から2クラス、昨日さらに1クラスがインフルエンザによる影響で学級閉鎖となっています。生徒のみなさんには、手洗いとうがい、そして十分な休養とで予防に努めてほしいと思っています。

 ところで、1月26日(土)午後5時半より、パレスホテル立川4Fローズルームにて、平成31年学校法人昭和第一学園賀詞交換会が行われました。当日は200名を超える多くの方にご出席いただきました。プログラムは、大神田理事長と私からのご挨拶、ご来賓からのご挨拶、女性バイオリニストのYuiさんと本校吹奏楽部のコラボ演奏、そして懇親会という内容でした。とりわけコラボ演奏には多くのみなさんの好評を博しました。「カルメン組曲」「スペイン」「ハンガリー舞曲」のコラボ演奏は、一流バイオリニストの演奏はもちろんですが、本校吹奏楽部の演奏もなかなかのものだったと思います。年々演奏レベルが上がっているようです。以下に私からの校長挨拶を掲載しておきます。

 

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平成31年初頭に当たって

皆様、新年明けましておめでとうございます。皆様はどんなお気持ちで新年を迎えられたでしょうか。私はとても清々しい気持ちで新春の朝を迎えることができました。と申しますのも、『校長だより№34』でもお知らせしましたが、元日から3日までの早朝、東の空に新月間近の細い月、「明けの明星」「希望の明星」で有名な金星、そして吉星の木星が並ぶ見事な天体ショーを見ることができたからであります。「こいつは春から縁起がいい」といったところでした。昨年12月からの入試相談では、昨年度よりも多くの相談件数があり、新入生の数は若干増えることが予測できます。また、先週行われました推薦入試も無事終了しました。1学年定員の3分の1ほどの合格者が出ました。東京都取り決めの2分の1まで増やせるように学校として尽力していきたいと思います。しかし、「好事魔多し」と言いますように、残念な話を一つご報告しておきます。インフルエンザによる学級閉鎖が複数クラス出ましたので、本日予定されておりました、普通部1年生の合唱祭を中止致しました。準備をしてきた生徒たちにはかわいそうですが、罹患拡大を防ぐための措置ということで理解が得られると思います。

さて、皆様ご存じのように、今年は亥年です。もう少し正確に言うと、己の亥年と言います。己(つちのと)という字は己(おのれ)という字を当てますが、この意味はというと、植物の生長に照らし合わせて、草木が生長を終えて姿が整った状態を表すそうです。また、亥年の亥の方は、植物の生命が引き継がれて種の中にエネルギーがこもった状態を表すとのことです。転じて、この年は、成熟した組織が、しっかりと足もとを固めて、次のステージに向けての準備をすると良い年だそうです。これは、本校にそのまま当てはまる年だなという感じが致します。

本校は来年2020年東京オリンピックの年に創立80周年を迎えます。まさにその前年ですので、その記念事業をしっかりと進めるための準備の年にしていきたいと考えています。それと同時に2019年度は学園経営第3次中長期計画実行の最終年度ですので、次の第4次中長期計画も練っていく年ということになります。

現在の第3次計画の中で掲げました進学実績の向上、キャリア教育の構築、そしてグローバル教育の展開についてご報告致します。進学実績の方は、現在一般入試の最中で結果は出てきておりませんが、昨年3月実績で申しますと、高等教育に進学した生徒が(浪人を除いて)普通部86.6%、工業部が85.1%でした。キャリア教育については、キャリア相談室の運営が順調に行われています。グローバル教育に関しては、本日、この同時刻に、初めて高校1年生(今年度からスタートした特別選抜コース1年生)14名が、成田からニュージーランドでの約3ヶ月のターム留学に出発致します。この生徒たちがもたらす成果を楽しみにしています。そして、彼ら彼女らの卒業時には、最初に述べました確かな進学実績を残してほしいと願っています。その進学実績とは、お正月ですから夢のあることを言えば、10年先、20年先には、できれば優れた海外の大学(シンガポール大学や香港大学など)に進学していってほしいと思っています。

さて、今年も新春からスポーツで盛り上がっています。関東大学箱根駅伝はもちろんのこと、今週の日曜日に行われた広島での都道府県対抗駅伝、卒業生で駒大4年の片西君もしっかりとタスキをつないでくれました。このタスキ、私たちでいえば、学校の建学の精神や優れた教育理念、あるいは昨年から発信したSDGプロフェッショナルポリシー(いつでもどこでも主体的に持続的に、学び、考え、創造し、そして行動できおる人物に成長する)といったところだと思います。現在の自分達から、未来の進化している学校に向けて、タスキを太くしていろいろなものを染みこませて次代につないでいきたいと考えています。皆様のお力添えを今年もよろしくお願い申し上げます。

最後になり、誠に恐縮ですが、ご列席の皆様のご健勝とご多幸、そして本校の発展を祈念しまして私からの挨拶の結びとさせていただきます。どうもありがとうございました。

 

 
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校長だより№37 自然知能 2019年01月22日
 

校長だより№37 自然知能

2019年1月22日 校長 森田 勉

 

 今日は推薦入試が行われました。おかげさまで好天に恵まれ、交通期間の乱れもなく、無事に終了することができました。頑張ってくれた受験生、しっかりと送り出していただいた保護者の皆様、そして運営した本校のスタッフ他、関係の皆様に感謝したいと思います。どうもありがとうございました。今朝は、東の空に金星と木星が並んで見事に輝いていました。黎明期の天体ショーに、これから飛躍する受験生たちが重なって見えてなりませんでした。今日は受験生たちの緊張が私たちにも強く伝わってきて、身の引き締まる思いでした。この緊張感の奥には、高校生活への期待感や将来の夢が秘められているに違いありません。あと数ヶ月後に始まる高校生活において、持っている能力を十分に発揮して、大きく成長してほしいと心から願っています。

 ところで、先日、東京工業大学教授原正彦先生の講演会に参加する機会がありました。テーマは、「人工知能の次に来る『自然知能』を考える」という内容でした。

 「自然知能」とは、自然界に内在する未だ外部から読み取れない不可知な部分を含む複雑なメディアの「環境制御」と「価値の選択」に基づいて発現する知能、であるとのことでした。これだけではよく分かりませんね(笑)。私もよく分かりませんでした。原さんの講演を聴いて、私なりにそれをまとめてみると、簡単に言えば、自然界で未来を生きようとする生物が、今の瞬間を試行錯誤しながら、比較的短時間で、数ある選択肢の中から解決策を効率的に導き出す能力と言えるのではないでしょうか。

 みなさんは、1秒間に1京(1016)回の演算機能を持つ「京コンピューター」が開発されたことは、どこかで聞いたことがあるでしょう。原先生は、こうしたコンピューターやナノテクノロジーの限界を考えるようになったそうです。ビッグデータという言葉をご存じだと思いますが、ネットワークの情報量が膨大になりすぎた状態-これを「情報爆発」と呼ぶそうです-になっていて収拾がつかなくなっているというのです。また、今、サッカーのアジアカップが開かれていますが、コンピューターには90分で試合に勝つシミュレーションをすることは絶対にできないそうです。なぜならば、90分のゲームで1-0とか3-2とかの結果が出るけれど、結果は同じでも試合開始から終了まで同じプロセスをたどることはあり得ず、そのプロセスは無限に存在していて、これもある意味で情報爆発を起こしているから、というのです。こういう状態でコンピューターに計算をさせると、計算できないか、もしくはとんでもなく時間がかかるということです。しかし、生物や人間は、確率的なことを不思議な感覚で、曖昧さを持ちつつ実行して的確な答えを出す能力を持っていると言います。コンピューターは一定の規則の中で答えを計算で出していくので、前提が崩れると到底解決できなくなり、例えば、オフサイドラインを突破されると機能停止となるけれど、人間は何とかしようと対処します。現在のロボットには、無人のスペースに向けて走り込むことを予想してスルーパスを出すことはできず、人間にしか効率よく見事なパスを出せないそうです。これを聞いたとき、なぜかとても嬉しい気持ちになりました(笑)。

 原先生は、こうした生物の持つダイナミクスに注目し、自然界に内在する不可知な部分にすごい能力が潜んでいると説きます。具体的には、コンピューターではなかなか解決できない「巡回セールスマン問題」(世界の各都市にいるカスタマーをセールスマンが最短距離で回る)に対して、粘菌=アメーバーがたくさんの(山ほどある)可能性の中から最も良い答えを見出すことができることを実験的に示しました。上手に活用できれば、人間がプログラムできなかった(コンピューターで計算できなかった)想定外の状況においてすら、自然現象のダイナミクスに基づいて、最適な答えを導き出せるようなデバイスや物体を構築できる可能性があると力説していました。

 いずれにしても、私たち人間も生物であり、本来持っている能力があることが実感できた講演会でした。

 ○ 自発的に次々にいくつもの異なる答えを見出していく能力 

 ○ 想定外のことが起こっても何とか解決策を発見しようとする能力 

 ○ 一つの答えに到達しても、さらによい答えがあるのではないかと模索しようとする能力

 ○ 間違えても(めげずに)次に向かっていく能力

などなど、これらは、まさに「人間力」と言えるものだなと感じました。この講演を聴いて、粘菌の持つ驚くべき能力を通して、近未来に到来する「人工知能」時代の中で、「自然知能」を持つ私たちは力強く生き抜いていけることを確信できました。

 
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校長だより№36 「こだわり」 2019年01月16日
 

 

2019年1月16日 校長 森田 勉

 

 新年が明けて早くも2週間あまりが過ぎました。寒い日が続いていますので、風邪などひかれていませんか? どうぞ体調管理に十分気をつけてお過ごしください。

ところで、先週の12日(土)の午後、本校の言わば兄弟校である水道橋の昭和第一高等学校・新春賀詞交歓会に参加してきました。本校と名前が似ているところから、ご存じの方も多いかと思いますが、1929年に昭和第一商業学校として創立して、現在90周年目を迎える伝統ある学校です。1980年4月に本学園と分離独立して現在に至っています。「明るく 強く 正しく」の校訓、そして校歌も本校と同じです。創設者がともに比留間安治先生ですから、当然と言えば当然ですね。余談ですが、夏に有楽町の国際フォーラムで開催される私立学校展で、間違えて本校のブースに(あるいは先方のブースに)相談される人が毎年何人か見受けられます。

さて、その賀詞交歓会の様子です。開会に先だっての、江東区深川木場の木遣(きやり)保存会「木響会(ききょうかい)」の皆様によるおめでたい「木遣」の披露、主催者や来賓の挨拶に先駆けて、歌い始めとして「一月一日(いちがついちじつ)」の参加者全員での合唱、そして乾杯直後の勇壮な深川富岡八幡葵太鼓の演奏と、とてもユニークな会でした。私も参加して6年目、これらは毎年行われていますので、賀詞交歓会の定番になっているものと思います。いい意味での「こだわり」を感じ、愉快な気持ちになました。

 

次に、1月15日(火)の午後に大森学園高等学校で開かれた講演会での話です。講演者は、大田区のトキワ精機株式会社代表取締役社長の木村洋一さんでした。演題は「まるみ君からまわる君へ」というテーマで、ものづくりに関する内容でした。木村さんは、世界になかった「まるみ君」という油圧配管継手(機器とシリンダーをつなぐ部品)を開発製品化して特許を取っている方です。その製品も凄いのですが、私が共感したのは、「より少ない資源とエネルギーで」「後始末できないものづくりは問題」「ものの過剰と本気で向き合う姿勢」「ファーストフードはゴミの山」といったこだわり部分でした。そこに共通するのは、「①ゴミは分別でなく減らすこと。 ②小さな循環こそ環境に優しいということ。 ③いかに作らないかを考えること=ものを活かすこと。」というコンセプトでした。無駄なものは作らない、利用できるものは再利用するという、木村さんのいい意味での「こだわり」に、これからの未来社会で生きていく上で非常に重要なことを学ぶことができ、とても得をした気分になりました。

 

今回は、二つのいい意味での「こだわり」を紹介させていただきました。

ちなみに、本学園の賀詞交換会(賀詞交歓会ではなく賀詞交換会・・・ここにも「こだわり」があります)は、1月26日(土)の午後5時半からパレスホテル立川で開催されます。

 
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校長だより№35 謹賀新年 2019年01月08日
 

校長だより№35 謹賀新年

2019年1月8日 校長 森田 勉

 

   皆様、新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。みなさんはどんなお気持ちでこの新年を迎えていらっしゃいますか? 私は例年にも増してとても清々しい気持ちで新年の朝を迎えることができました。それというのも、前号の『校長だより』でお知らせした天体ショーを見ることができたからです。


1月1日から3日の早朝、東の空に新月間近の細い月、希望の明星の金星、吉星の木星が見事に縦に並んでいました(それぞれの位置関係は変化していきましたが)。なんとなく御利益があるような気がしたのは私だけではないと思います。

みなさんはご覧になりましたか? ちょっと朝早かったので、朝寝坊をした方は見逃してしまったかもしれません。そこで、2日の朝に天体望遠鏡越しに撮影した写真(月と金星)を載せておきますね。 

 そして、6日の午前10時前後には部分日食が見られました。午前中は晴れていたので、こちらも十分に楽しむことができました。日食グラスを通して、月が太陽を部分的に隠していく様子が、本当に月が太陽を食していくようで楽しかったです。


 こちらは、日食グラス越しにスマフォで撮影した写真を拡大して載せておきます。これがなかなか難しかったのですが、何とか撮れましたのでご覧ください。次の部分日食は、12月26日の午後に見られるようです。今回見逃された方は、ぜひそのチャンスを忘れずに見てほしいと思います。

 ところで、今年はみなさんご存じのように亥年です。そしてもう少し正確に言うと、今年の干支は「己(つちのと)の亥年」と言うそうです。この年は、成熟した組織や人が、足もとをしっかりと固めて次のステージに進むための準備をするとよい年だそうです。本校は2020年に創立80周年を迎えます。今年はそれに向けて「昭和第一学園創立80周年記念事業委員会」を中心に、その事業に関してしっかりと検討して準備をしていきたいと考えています。

 みなさんにとりましても実り多き新年となることを祈っております。

 

 

 

 

 
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校長だより№34  注目の部分日食 2018年12月25日
 

校長だより№34  注目の部分日食

2018年12月25日 校長 森田 勉

 いよいよ年の瀬が迫ってきました。「終わりよければすべてよし」と言います。この1年間をしっかりと振り返って、成果と課題をきちんと整理して来たるべき新年に臨んでいきたいと思います。

 ところで、新年早々にお勧めしたい“天体ショー”が見られます。国立天文台のホームページにも詳しく紹介されていますので、そこからいくつかの絵を以下に貼り付けておきます。

 まず、元日から3日の早朝、東の空に月と金星と木星が織りなす見事な様子が見られると思います。初日の出もいいですが、こちらもなかなかの見物です。新月間近の細い月、明けの明星、そして吉星と言われる木星が並んでいます。きっと御利益がありますよ(笑)。

 そして何と言っても見逃せないのが、1月6日(日)の午前中に見られる部分日食です。日曜日の朝ですから比較的余裕があるので、ご家族みんなでご覧になられたら良いと思います。でも直接見ないように注意してください。国立天文台のホームページにも次のように注意が掲載されています。「太陽は、たいへん強い光と熱を出している天体です。肉眼で直接太陽を見ると、たとえ短い時間であっても目を痛めてしまいます。太陽がどんなに欠けていても光と熱が強烈であることは変わりません。安全な方法で観察しなければ、最悪の場合失明する危険性があります。日食グラスなど専用の観察器具を正しく使うなど、安全な方法で日食を観察してください。」 日食グラスは近所の書店などで安価で買えると思いますからご用意ください。

 

 上図は、東京で見られる日食の始まる時間から終わりまでの様子です。天気が良いことを祈りましょう。よくご存じかもしれませんが、以下に日食が起こる理由を解説しておきます。難しいと思う人は読まなくても大丈夫です。それでは良い年をお迎えください。

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 日食とは、図1のように地球と太陽の間に月が入り、太陽を隠す現象です。図1では、

 

              図1 日食の模式図

太陽、月、地球の大きさや距離の縮尺がかなり大まかすぎます。実際には太陽は直径が1.4×109m、地球からの距離は1.5×1011m離れています。そして月の直径は3.5×106m、地球からの距離は3.8×108mです。したがって、図1はかなりいいかげんに描かれていることがわかるでしょう。

   地球上では図2のように、完全に影になって太陽が見えなくなる本影(ほんえい)とそこから外れた半影(はんえい)とよばれるところができます。本影に入るとその地域は太陽が完全に隠れる皆既日食が見られます。半影に入ると太陽が部分的に隠される部分日食が見えることになります。1月6日に見られるのはこの部分日食です。

 

  一般に「食」とよばれる現象は「ある天体が他の天体の一部または全部をおおい隠す現象」と定義されています。月が太陽をおおい隠せば日食というわけです。ちなみに、地球が月を隠せば月食と言います。また、星食や惑星による衛星の食など宇宙では「食」という現象は、それほどめずらしくないと言ってもいいでしょう-月が金星を隠す「金星食」やすばるを隠す「すばる食」などが有名です。

 しかし、この日食、とくに地球上で起こる皆既日食は、奇跡的な現象であると言われています。太陽系以外でも、太陽と同じような恒星の周りを惑星がまわり、その惑星の衛星が恒星を隠す、いわゆる“日食”が広い宇宙では結構起きているものと想像できます。けれども、地球で見られる皆既日食のように、ほぼ同じ大きさに見える月が完全に太陽をおおい隠す現象はめったに起きないと思われます。その理由を説明しましょう。

 先に、太陽、月のそれぞれの直径と地球からの距離を示しましたが、そのそれぞれの大きさを比べてみます。すると直径も地球からの距離も、太陽は月の約400倍になるのです。つまり、実際には太陽は月よりも400倍も大きいですが、地球からの距離も400倍も遠くに離れていますので、地球から見るとそれらの見かけの大きさは驚くほど近い値をとることになります。したがって、地球が太陽の周りをまわる公転軌道と月が地球の周りをまわる公転軌道がぴたりと一致したときに、見かけの太陽と月がどんぴしゃり重なるというわけです。そのとき、いろいろと魅惑的な現象が見られます。「ダイヤモンドリング」とよばれる現象もその一つです―太陽がすべて隠れる直前と直後に太陽の光が一ヵ所だけ漏れ出       

          図3 ダイヤモンドリング(中段の左と右)

て輝く瞬間があり、これがあたかも指輪=ダイヤモンドリングそっくりに見えるところから、そう呼ばれています。

 つまり、以上のように、太陽と月(衛星)の見かけの大きさが一致する惑星は宇宙ひろしといえども地球ぐらいではないか、と思われるのです。すなわち、皆既日食は奇跡の惑星、地球に起きる奇跡的な現象であると言えるでしょう。

 しかし、月の軌道は完全な円軌道ではないので、地球からの距離がやや遠いときには太陽は完全には隠れず、金環日食となります。月の影のまわりから太陽の光が漏れ出てまさしく金色の環ができます。2012年5月21日に東京でもこの金環日食が見えたことを覚えている人も多いことでしょう。ちなみに、次に日本で、しかも関東地方で見られる皆既日食は2035年9月2日だそうです。そのときまで節制して生きていたいものです(笑)。

 
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校長だより№33 『冬休みを迎えるにあたって』より 2018年12月20日
 

校長だより№33 『冬休みを迎えるにあたって』より

2018年12月20日 校長 森田 勉

 

 本日、2学期の終業式を迎えました。大過なくこの日を迎えられたことは有り難いことであると思います。これも、ご協力いただいている皆様方のおかげであると衷心より感謝しています。

 先週、今年の世相を表す漢字が発表されました。「災」という字が選ばれたということです。今年は自然災害が多かったし、人災とも言える不祥事も多々あったことを示しているようです。しかし、災害の経験から多くの人が自助共助の大切さを再認識できたという良い側面もありました。新年は同じ「さい」でも、才能あふれる若者たちが彩り豊かな実績を残し、そしてみんなが祝祭的な気分になれるように、「才」「彩」「祭」などの字が躍るような素晴らしい年になるといいですね。

 暖冬とはいえ、寒さが厳しくなってくる時期です。皆様におかれましては、お身体ご自愛の上、どうぞよい年をお迎えください。

 なお、本日生徒に配布した『冬休みを迎えるにあたって』内の校長挨拶文を以下に貼り付けておきますので、ご覧ください。

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冬休みを迎えるにあたって

 本日、平成三十年度第二学期の終業式を迎えました。ここまで学校を震撼させるような大きな事件や事故もなく平成最後の一年を終えることができます。これも、生徒諸君が、自らが学校の主体者であるという自覚を強く持ち始めている人が増えてきていること、そして多くの生徒が健全な学校生活を創造しようという強い意欲を持って取り組んでくれた成果であると高く評価しています。この場を借りて感謝の意を表しておきます。どうもありがとうございます。

 さて、もう少しで今年も終わろうとしています。4月に新年度がスタートして、1年の3分の2が過ぎました。ここまでの自分自身をしっかりと振り返り、成長できた点を確認して次へのスプリングボードとし、また不足している点をしっかりと洗い出し、新年の課題とするように努めてください。「反省はするけれど後悔はしない」といった健全な姿勢が自己を成長させる上ではとても大切なことです。今日のような一年の節目の日は、これまでの振る舞いや思考を振り返るのには最適な日です。じっくりと振り返ってみてください。

 今年度学校が新たな取り組みとして行事予定表に組み入れた日がありました。それは、「自学自習推進デー」と「学びの振り返りデー」、そして、夏休みに入るときの「学びウイーク」です。これらの日は、諸君の主体的な学習を促す目的で設定しました。それはなぜかというと、「学習」や「学び」が高校生の本分だからです。そして、AIをはじめとした技術革新が進む未来社会を生き抜いていく諸君に、これからも持ち続けていくべきことが学習習慣だからです。これらの日にはその学習習慣を確立していくためのきっかけにしてほしいという強い願いが込められています。この学習習慣の確立こそが、将来の自分を助け、大きく飛躍させる上で最も大切なことであると考えています。だからこそ、この春に「SDGプロフェッショナルポリシー」を策定し、発信を始めているわけです。それは「いつでもどこでも主体的持続的に学ぶ、考える、創造する、そして行動する」精神でした。

 さあ、どうでしょうか。諸君一人ひとりに問いかけたいと思います。

「この一年、学習習慣の確立ができたと自信を持って断言できるかどうか、あるいは、まだ習慣化はしていないけれど意識的に学習に取り組んでいたかどうか」 

「できた」と即答できる人は、現状に甘んじることなく努力を積み重ねていきましょう。「できなかった」という人は、もう一度しっかりとした心構えを持てるように努めてみましょう。心が変わればすべてが変わります。

 最後に『論語』から、私が気に入っている一節を紹介しておきましょう。それは、「学びて時に之を習う、亦説(よろこ)ばしからずや」という一節です。私はこの言葉を「知識を習得するために機会を捉えて何度も復習をし、そしてそれを実践に移して自らの経験として定着させていくと、達成感や充実感を持て、高い次元の喜びを得ることができる」と解釈しています。まさに学習を中心とした基本的生活習慣の確立の大切さを意味している言葉です。

 「一年の計は元旦にあり」と、古くから言い伝えられていますが、新年を迎えるにあたり、これまでの一年間を振り返り、しっかりと検証して来たるべき希望の日々に備える準備を着実に行ってほしいと願っています。

(『論語』:中国から伝わった孔子と弟子(でし)たちとの問答を集録した書物で、日本人の道徳規範や倫理観と深く関わりがあるといわれています)

 

 
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校長だより№32 夢・未来プロジェクト 2018年12月12日
 

校長だより№32 夢・未来プロジェクト

 

2018年12月12日(水) 校長 森田 勉

 

 12月に入ってから例年になく暖かい日があったかと思えば急に寒くなるといった奇妙な天候が続きました。「寒暖差疲労」に悩まされている人も多いそうです。そして、ここ数日本当に寒い日が続きましたので、風邪などひかぬように注意していきましょう。

 学校では、12/3~6の期末試験、それに続く12/7~10のスポーツフェスティバルを無事に終えた翌日、12月11日(火)に「夢・未来プロジェクト(平成30年度オリンピック・パラリンピック教育推進事業)」が、本校の体育館で実施されました。この「夢・未来プロジェクト」とは、2020東京オリンピック・パラリンピック開催に向けて、生徒たちがオリンピアンやパラリンピアンらと直接交流することで、その理念や価値を理解し、スポーツへの関心を高めることや、夢や希望を持ち続け、進んで平和な社会や共生社会の実現に貢献できることを目的として、東京都が推進している事業です。今回は、バレーボール元日本代表選手の山本隆弘さんをお迎えして、午後1時からおよそ3時間のプログラムで行われました。

 最初に応接してお出迎えをしましたが、まずは何といっても驚いたのは、その身長です。2メートル2センチあるそうで、隣りに並んで記念写真を撮ったのですが、私と約30センチも違いましたので、まるで大人と子どものような感覚でした。

 プログラムは、最初に運動部各部から選ばれた生徒約200人を前にしての講演、それから、基礎的なパスの実技披露をしながらの交流、そして男女バレーボール部に対する実技指導という内容でした。

 講演では、「自分としっかりと向き合い、大きな夢・目標・ビジョンを持つこと、そしてその実現のために日々の目標設定をすること」「目標を持って努力を積み重ねてチャレンジし続けていくこと」「壁にも突き当たると思うが、それは自分が成長できるチャンスでもあると受け止めること」「志あるところに道ありき。どれだけあきらめずに進んでいけるかが大事」等々、運動部員たちに熱いメッセージを送ってくださいました。生徒たちも熱心に聞き入っていました。きっと心の琴線に触れたことだと信じています。

 交流の際には、野球部員から「背を伸ばすにはどうしたらよいですか?」という質問が飛び出しました。それに対しても「練習、食事、睡眠、勉強の4つが欠かせない」と丁寧にお答えいただきました。ご自身は高校時代に牛乳を1日6リットル飲んでいたそうですが、これは真似できそうにありません。

 バレーボール部員に対する実技指導では、「サーブの打ち方」「オーバーハンドパスの基本」「ブロックの入り方」「スパイクの体重の乗せ方」「コースの打ち分け方」など貴重なご指導をいただきました。加えて、私学大会を目前に控えている部員たちに、「気持ちを一つに、そして高めていくためにも声を掛け合っていくこと」と助言していただきました。部員たちは大会に向けて大きな刺激を受けたようです。

 最後に、別室にて新聞部員の取材を受けたときに、「夢や目標を持って、明るい未来を創ってほしい。日本をしょって立つぐらいの気概で、自分のためにやれば必ず他者のためになると信じて頑張ってほしい」とエールをいただきました。

 私も、最初から最後まで同席させて貰いましたが、本当の本物に触れるということは、まさに向上意欲をかき立てられるものだなと改めたて実感しました。また来年度もこうした取り組みを実現したいという強い気持ちが湧きました。

 
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校長だより№31 学ぶ喜び(2)・・・ PTA主催の講演会 2018年11月28日
 

校長だより№31 学ぶ喜び(2)・・・ PTA主催の講演会

 

2018年11月28日(水) 校長 森田 勉

 

 11月24日(土)の午後2時半から、PTA主催の講演会が開催されました。例年受講者は保護者のみなさんに限られていましたが、今回は、その講演テーマから、近隣や同窓生のみなさんにもお聴きいただきたいとのPTA役員の皆様のご配慮で、“開かれた”講演会になりました。まさに「開かれた教育」という本校の教育方針の実践でした。おかげさまで、多くの方にお集まりいただき、楽しい講演会になりました。PTA講演委員会の皆様にはこの場をお借りして感謝申し上げます。準備・運営・進行等、本当にありがとうございました。

 さて、本題の講演会ですが、東京工科大学学長の軽部征夫先生に「100歳まで元気を保つための科学」という演題で講演していただきました。人生100年時代といわれている現代において、科学の視点から長く元気を保つ方法を、という誰もが興味あるテーマに関してわかりやすくお話ししてくださいました。

以下にその概要を書いておきましょう。

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 科学は人間の寿命を延ばすことに貢献してきた。10年間で平均余命が1歳延びるといわれている。今の高校生が高齢になる時代においてはおそらく70歳ぐらいまで働かなくてはいけなくなる。政府も、仕事をリタイアしたあとに、新しい職業に向けた勉強ができる、“リカレント教育”を検討している。

 老化は、細胞増殖機能の低下やDNAの突然変異の蓄積などの原因により細胞レベルで起きる。そして細胞分裂を重ねることでも老化は進む。世界で長生きしている人は、アディポネクチン(多機能ホルモン)の分泌能が高い。そして、ちょっと太り気味の方が長生きするというデータがある。外見を保つこと-ここで聴講者から笑い-、さらに若者と過ごすことも長寿の秘訣-私たち教員にとっては嬉しい話-である。それは、活性酸素をつぶす酵素がたくさん出てくるから。

 老化や延命に対する現代科学としては、〇遺伝子治療(遺伝病治療・老化抑制) 〇クローン技術(臓器再生・移植) 〇再生組織工学(ES細胞・IPS細胞・組織の再生)などがある。クロトーという長寿遺伝子が日本人によって発見された。この遺伝子は老化を抑制するホルモンをつくるが、一方で抗インスリン作用をもってしまう。ES細胞で臓器を再生することができるが、これは受精卵を壊してつくるので、生命倫理問題が発生する。そこで出てきたのがIPS細胞で、この技術が注目されている。さらに「遺伝子編集」という、異常な遺伝子を破壊して正常な遺伝子を導入する方法などの研究が進んでいる。

 健康や長寿に対する食のアプローチについての話。カロリー制限には長寿の効果がある。長生きの4つの秘訣とは、①タバコを吸わない。 ②運動をする。 ③野菜と果物を毎日食べる。 ④酒を「適度」に飲む。 そして何といってもストレスに気をつけること。これは代謝に影響を与えるから。ストレスによって免疫力が低下する。良質のタンパク質(肉)を摂ること。脂身と赤身とがはっきりしている肉がいい。魚もいいけどバランスのよい食事を心がけることが一番いい。7時間の睡眠と歩く(適度な運動)こと。

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 私のメモでは書ききれないほど有意義なお話が盛り沢山でした。特保食品やニュートリションに頼るのではなく、バランスのよい食事と健康に対する自覚が重要であるという言葉には耳が痛い思いでした。やっぱりラクをして(安直な方法で)健康を保とうとしても駄目ですね(笑)。本当に勉強になる楽しいお話でした。参加されたみなさんも満足そうなお顔をなさっていたので嬉しく思います。みなさんとともに有意義なひとときを過ごすことができました。やっぱり学ぶことには喜びがあります。今回はPTA主催の講演会でしたが、今後も本校が教養文化の発信地になっていけるように、様々な取り組みをしていきたいと思います。

※ 本校は、東京工科大学と教育連携に関して協定を結んでいます。

 

~~~~ 軽部征夫先生プロフィール ~~~~

1972年東京工業大学大学院博士課程終了後、米イリノイ大学で動脈硬化のメカニズム研究に従事。その後、東京工業大学教授、東京大学先端科学技術研究センター教授、東京大学国際産学共同研究センター長、東京工科大学において学部長、大学院研究科長、副学長を経て2008年6月より学長。専門はバイオテクノロジー、バイオエレクトロニクス。

 
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校長だより№30 学ぶ喜び(1)・・・ ニュートリノの話 2018年11月26日
 

校長だより№30 学ぶ喜び(1)・・・ ニュートリノの話

 

2018年11月26日(月) 校長 森田 勉

 

 11月21日の夜、三鷹市公会堂で第10回三鷹の森科学文化祭記念講演会:梶田隆章先生講演会「地下から探る宇宙~ニュートリノと重力波~」があり参加してきました。

 梶田先生は、2015年に「ニュートリノ振動の発見」でノーベル物理学賞を受賞された方です。とても面白いなと感じたニュートリノに関しての話のあらましを以下に書いてみます。

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 まずはニュートリノの基本的性質から。大きさがないくらい小さく、電子から電荷と質量を取り除いた粒子といったイメージ。他の粒子と引き合ったり反発したりしないので、地球も素通りする。しかし、ごくまれに何かとぶつかったときに観測できる。

 ニュートリノには電子ニュートリノ、ミューニュートリノ、タウニュートリノの3種類あることが知られている(本講演ではこの種類の違いはあまり問題ではない)。今までニュートリノには質量がないとされてきた。

 質量があるかどうかは大変な重要課題。それをどうやって調べるか。もちろん小さすぎて直接は見えない。ニュートリノが原子核にぶつかったときに、そこから別の素粒子が飛び出してくる。例えば電子やミューオンと呼ばれる素粒子である。たくさんの水を溜めて反応を見ていると、ときたま電気を持った素粒子が飛び出すと光が出る。この光の検出でニュートリノ反応が起きたことが分かる。

 1983年の7月からカミオカンデ(岐阜県飛騨市神岡鉱山内)で実験が始まった。観測を続けるとミューニュートリノ数が予想より少ないことが分かった。この現象の解明がスーパーカミオカンデに引き継がれていく。スーパーカミオカンデは1996年1月に完成し観測が開始された。毎日10回ぐらいのニュートリノ反応が見られる。スーパーカミオカンデの上空から来る(飛行距離10kmの)下向きのミューニュートリノと地球の反対側から地球を突き抜けてやってくる(飛行距離1万kmの)上向きのミューニュートリノの数に違いがある。飛んでくる間にタイプが変化するという仮説を立てて、実験で証明した。このタイプの変化とは、ミューニュートリノ→タウニュートリノ→ミューニュートリノ→タウニュートリノというもので、これをニュートリノ振動と呼んでいる。

 実験の結果、上向きのミューニュートリノは予想値より半分ほどであった。このことから、振動が起きていることが分かり、ニュートリノには質量があることが分かった。光子のように光のスピードで飛ぶ粒子には質量はないし何の変化も起きない。変化が起きるということは光速で飛ぶわけではなく質量を持っているということ。しかし、この質量は非常に小さく、電子の質量の10億分の1の100億分の1ぐらい小さい。

 なぜ質量を持っていることが大切か。それはこの宇宙の創成と関係しているから。その一例。星や銀河は物質でできて、反物質でできていない。ビッグバンのときは超高温宇宙であった。こういう熱い宇宙では、粒子と反粒子が一緒に生まれたり、またぶつかって消滅したりを繰り返している。つまり粒子と反粒子は同数であったと思われていた。しかし、冷えてくると宇宙は物質だけで反物質はない。もし、10億と1個の粒子と10億個の反粒子があったなら、ぶつかった後に1個の粒子が残る。こうしてできたのが宇宙ではないかと言われている。そこではニュートリノの存在が鍵になると考えられている。

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 とても楽しいお話でした。しかし、聴けば聴くほど分からないことが増えてくるという不思議な感覚も味わえました。この本当に小さな粒子が、宇宙をより深く理解する鍵になるということは少なくとも理解できました(苦笑)。当日参加していた小中学生や高校生たちが、将来、このニュートリノを技術的に活かすといった発明をしてくれたら嬉しいな、という夢のある時間を過ごすことができました。やっぱり学ぶことには喜びがありますね。

 
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校長だより№29 東私工見学会 2018年11月21日
 

校長だより№29 東私工見学会

 

2018年11月22日 校長 森田 勉

 

 東京都内には、工業系を併設もしくは展開している私立の高等学校は、昭和鉄道高等学校や岩倉高等学校のように鉄道系や運輸系の2校と、純粋な工業部門を有している日工大付属駒場高等学校、大森学園高等学校、東京実業高等学校と本校の4校で、合計6校あります。この6校は東京私立工業高等学校長協会(東私工 と称しています)に加盟しています。10年前の加盟校数は12校でしたが、半数は普通科のみの学校へと転換をはかり、現在の数に至っています。この東私工では、毎年11月に「東私工見学会」を行っていて、例年は大学や専門学校に出向き、見学とあわせて進路関係の説明会も開いています。しかし、今年度は、昭和鉄道高等学校の中野校長先生のお計らいもあり、江東区新木場にある東京メトロ総合研修訓練センターを11月16日(金)に見学しました。

 東京地下鉄株式会社人事部総合研修訓練センターの岸田達樹様より、丁寧かつ軽快な説明と施設の案内があり、参加した東私工の校長6名と各校の先生方20名の計26名の誰もが満足顔で充実度満載でした。その説明と当日頂戴したパンフレットによると、このセンターは、かつて中野富士見町など各所に点在していた各部門の研修施設を統合し、2016年4月に開所しました。新木場車両基地に隣接する27,000㎡(サッカーコート4面分の広さ)の敷地に5階建ての研修棟に加え、同社では初となる「営業線に準じた訓練線」を備えているのが特徴です。これまで人身事故やポイント故障、脱線から復旧といった訓練は車両基地を使用していたため、営業終了後から翌営業開始(夜中から夜明け前)までの限られた時間内でしかできなかったものが、制約を受けることなく、(岸田様のお言葉を借りれば)「失敗を恐れることなく」訓練ができる施設となっています。

 お話の中で、東京メトロの利用客数が1日に742万人(1秒あたり108人)、全域内のポイント数が530カ所、変電所が64カ所、橋梁が90カ所(合計5,054m)、そして85%が地下を走っていること等々興味深いことを初めて知ることができました。

 また、研修棟には安全意識の高い企業風土を築くことを目的とした「安全繋想館」といって、平成12年3月8日に起きた日比谷線脱線事故の貴重な教訓を風化させないための施設もありました。同社では事故後に入社した社員が全体の62%を占めているということです。安全確保への強い思いを未来につなぎ、さらなる安全意識の高い企業風土を築いていくといった点、とても印象深いものでした。

 個人的にとても気に入ったのが、本物の運転士養成にも利用されるシミュレータに先生方を代表してチャレンジできたことです。童心に返って夢中になって運転してしまいました。電車が大好きな孫は私の血をひいているのかもしれません(笑)。

 いずれにしましても、一般見学を受け付けていない施設・設備の見学会を通して、貴重な体験をさせていただくことができました。これまで何気なく乗車している東京メトロでした。「ボーッと生きてんじゃねえよ!」とチコちゃんに叱られてしまうかもしれませんね。私たちが何の不安や恐怖心も抱くことなく安心して快適に乗れるのは、あのような素晴らしい施設での訓練のたまものであるのだなと、改めて大変勉強になりました。これからはもっと有り難みを感じながら乗車したいと思います。

 

★サッカー この日に何が起こったか

11月23日(1974年) 日本リーグ ヤンマーvs日立戦(生観戦)

晩秋の落ち着いた天候の一日であったと記憶している。大学1年生の私は、西が丘サッカー場(10,000人弱)で行われた日本サッカーリーグのヤンマー対日立戦を友達と2人で観戦に出かけた。

ともに勝てば優勝のチャンスという重要なゲームであったが、1点を先取したヤンマーが徹底した守備に入るという消極策を取ったために、後半は日立の猛攻を呼んでしまい、結局1-1で引き分けてしまった。内容的にもミスが多く、満足感を得られなかったことを強く憶えている。とくに、この日は秩父宮競技場でラグビーの早慶戦が行われていて、友達とどちらを見に行くか悩んだあげくに西が丘に来たのに、という思いが消えなかった。こういうゲームが、競技場から観客の足を遠のかせていく原因である。この年、このヤンマーが日本リーグを制覇したということを今から考えてみれば、1970年代後半から1980年代の日本サッカー「冬の時代」の前触れであったかもしれない。

 

11月24日(1980年) ヨハン・クライフをはじめて生で観た日

 クライフは衰えた、というより疲れている、そんな感じを抱いた試合であった。さすがにアヤックスやバルセロナで活躍していた1960年代後半から1970年代中盤までの躍動感はないが、随所に見せるテクニックは当時でも素晴らしいものがあった。しかし、クライフ率いる北米リーグのワシントン・ディプロマッツのアジア遠征は非常にハードなものであり、この日のクライフのプレーは、さすがに疲労の色を隠せないものがあった。それもそのはずである。香港で2試合、そのあと日本で4試合、一度インドネシアにわたり試合をやってきてから、再来日してのこの日の試合である。全盛期のクライフであっても悲鳴をあげていたであろう。さらに、インドネシア戦で、前から痛めていた右足をさらに痛めたため、動きに精彩を欠き、前半で交代してしまったのだ。せっかく楽しみにしてきたのに、という、とても残念な思い出が強く残っている試合である。

 そういうことで、そのこと以外にあまり印象に残っていない試合である。そこで、この試合及びクライフにまつわるエピソードを三つほど紹介しておこう。

 まず一つ目の話。実は、この日の試合、ゼロックス・スーパー・サッカーと銘打ったこの大会であった。現代ならあたりまえの、いわゆる“冠”つきの試合である。当時の日本体育協会のアマチュア委員長は、この試合に文句をつけたそうだ。理由は、「ゼロックス」という商品名を大会につけ、プロと試合をするのはよくない、ということであった。今では考えられないようなクレームである。私は、クライフを見せてくれたスポンサーに大いに感謝こそすれ苦情をいう筋合いは、全くないと思ったものだ。プロ導入が話題になっていたころである。40年近く前の当時、随分とアナクロニズムな発想だと思ったものである。

 二つ目は、クライフの通称についてである。クライフは、全盛時に「フライング・ダッチマン」と称されていた。これを、当時は「空飛ぶオランダ人」と訳していたし、私もそう思っていた。しかし、フライングという英語には「空を飛ぶ」という意味の他に、「飛ぶように速い」「機敏に行動する」という意味がある。どちらかというと、フライング・ダッチマンのフライングは、後者の意味なのではないだろうか、と最近は考え直している。言葉のニュアンスはその国の人でないとなかなか理解できないが、「空飛ぶオランダ人」というと、まるでスーパーマンという印象を与えるので、それでも何となく納得してきたのである。しかし、クライフのプレースタイルからすると、走り出しのタイミングの速さで相手をいっきょに置き去りにするところからして、「飛ぶように速い」という方がマッチしているように思えてならない。

 最後は、クライフの少年時代のお話である。オランダはイタリアとともにヨーロッパでも野球が盛んなところである。このクライフも若いときは野球をやっていたというから驚きだ。ナショナル・ユース・チームの選手でキャッチャーを務めていたそうである。クライフ自身も、「投手をリードし、走者をにらみ、盗塁をさす。私は、周囲を見て、いつも気を配るというキャッチャーの役目がサッカーにも影響したといえます」といっている。彼のヘリコプター・ビュー-まるでグランドの上から、つまりヘリコプターに乗ってグランドを見わたしているかのような視野の広さをもっているという意味-はこのときに培われたのかもしれない。日本の子どもたちも(大人たちもかな?)、一つのスポーツばかりやっているのではなく、複数のスポーツを経験することを勧めたい。意外な面白さを発見できるし、サッカーに還元できることも多いものである。私自身の経験からも-決して名選手ではないけれども-、野球、バレーボール、ハンドボール、バスケットボール、卓球などなど、好んでやったことがサッカーに生きたと感じている。

 

11月25日(1951年) 戦後初の欧州チーム来日 ヘルシングボリ

 第二次世界大戦終了後、ヨーロッパのチームで初来日したのは、スウェーデンのヘルシンクボリであった。この日、西宮球場で日本代表と試合が行われ0-3で日本の完敗。この代表との試合を含め、ヘルシンクボリは全6試合を戦い、得点36、失点0という圧倒的な強さを見せつけた。

 このときのヘルシンクボリのコーチは、1936年ベルリン・オリンピックのスウェーデン代表だったそうで、そのオリンピックで受けた屈辱を忘れておらず、奇しくも総得点36点の結果に、「仇を討った」と自尊心をいたく満足させて帰国したという。

 このベルリン・オリンピックの屈辱とは、日本では逆に「ベルリンの奇跡」と伝説になっている試合のことである。日本サッカーがはじめて参加した第11回ベルリン・オリンピックにおいて、同年8月4日、ノックアウトシステムの1回戦で、優勝候補とうたわれていた強豪スウェーデンを、なんと3-2で日本が破ってしまったのである。この記念すべき試合に出場した選手は次のとおりである。

GK佐野 FB(現代のDF)堀江、竹内 HB(現代のMF)立原、種田、金 FW松永、

右近、川本、加茂(健)、加茂(正) 

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 この「ベルリンの奇跡」について、2004年5月12日にNHKの「その時歴史が動いた」というテレビ番組で取りあげていた。「第177回 日本サッカー ベルリンオリンピックの奇跡~世界を驚かせた逆転勝利~」というタイトルであった。当時の時代背景や、選ばれた選手たちの苦悩、そして奇跡のスウェーデン戦等々、とても興味深い内容であった。中でも、選手として出場した堀江忠男氏の言葉や堀江氏が学んだチャールズ・バカン著の「フットボールエイズ」に書かれていた言葉は、とても感銘したのでここに載せておく。スポーツを愛好する者であれば、現在の人でも、そのまま心に響く言葉であると思う。

○「強くなろうとすることは、常に苦しいことです。しかし、苦しさに耐え、一歩一歩踏みしめていく、その過程こそが、喜びに変わっていくのです。」(堀江氏)

○「勝つ見こみがなくても、最後まで決してあきらめてはいけない。結果ではなく、勝とうする葛藤の中にこそ、喜びは生まれる」

○「どんな満足のいかない結果となっても、何が間違っていたのかを探しだし、克服しなければならない。もし、チームの1人が、自信を得ることができれば、その自信は仲間にも伝わっていく」

 

11月26日(1921年) 第1回全日本選手権で東京蹴球団が優勝

 1921年9月10日に大日本蹴球協会(後の日本サッカー協会)が設立され、その初事業は全日本選手権-当時の名称は同年11月28日付の新聞を見ると「ア式蹴球全国優勝競技会」となっている。ただし、前日の同27日付の新聞では「全国ア式蹴球争覇戦」と「日本選手権争覇蹴球大会」のふたとおりのいい方をしている-の開催であった。

日本各地の予選(参加チーム数は20余)を勝ち抜いた3チーム(東部代表の東京蹴球団、中部代表の名古屋蹴球団、近畿・四国代表の御影師範の3チーム)-当初は中国・九州代表の山口高校を入れ4チームで行われる予定であったが、山口高校は東京までの旅費を捻出できずに棄権したそうだ-による決勝大会が行われた。この日、記念すべ全日本選手権の初試合が東京・日比谷公園の芝生運動場で行われた。

翌日(27日)の午後2時から行われた決勝戦で、東京蹴球団が御影師範を1-0で破り、初の栄誉に輝いた。東京蹴球団には、イングランドのFAから寄贈された銀杯(FA杯)が、当時の英国大使エリオット博士から贈られた。この記念すべき決勝戦の出場メンバーは以下のとおりである。

〔東京蹴球団〕GK清水 DF露木、星野 MF山田、樋崎、守屋 FW菅家、当摩、安藤、浅沼、忍田  〔御影師範〕GK三木 DF高橋、井上俊 MF澤潟、今里、林 FW告野、井上才、城戸、丸山、藤原

 また、翌年(1992年)のこの日は、その第2回大会の決勝戦の日でもある。この年度も前年度と同様な規模で選手権が行われた。決勝大会に出揃ったのは、アストラ・クラブ、広島高等師範、大阪サッカークラブ、名古屋蹴球団の4チームであった。試合会場は池袋の豊島師範校庭で行われたというから、何となくのどかな感じが伝わってくる。しかし、決勝戦は白熱した試合で、1-0で広島高等師範を破った名古屋蹴球団が優勝した。

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 この全日本選手権が現在の天皇杯の前身である。天皇杯を授かったのは、1948年のことであった。当初は東西対抗の勝者に贈られたが、1951年の第31回大会から全日本選手権の優勝チームが受けることになり、正式に天皇杯全日本選手権となった。

 

11月27日(1956年) 日本、メルボルン五輪でオーストラリアに完敗

 日本のサッカーがオリンピックの舞台に登場したのは、1936年に行われた第11回のベルリン大会が最初であった。次に出場したのが、この大会である。

 ベルリン大会の次の大会は東京での開催が予定されていたが、第二次世界大戦のため開催されなかった。続く第13回大会も同じく戦争のために中止となってしまった。オリンピックは、戦争を繰り返してきた人類が、平和な社会をつくるために見つけ出した最後の文化的手段であるはずだが、悲しいことに戦火の前に屈してしまった時代があったのである。

 日本サッカーが敗戦後はじめて出場が許された大会が、この第16回メルボルン大会である。この大会は、今までは北半球でしか開催されたことがなかったオリンピックがはじめて南半球で行われるということでも注目された。11月であるのに夏季オリンピックというわけだ。

 この大会に臨んだ日本代表の主力は、1953年(昭和28年)に学生選抜として西ドイツのドルトムンドで開催された国際学生大会(つまり現在のユニバーシアード大会)に参加した世代が中心の若い選手が多かった。技術や経験のある戦前、戦中派は社会人として中堅の年齢層となり、もてる技術をより高める練習という点で無理のある状態だったから、技術的にはそのレベルに達していなくても将来性のある若手、練習を充分できる層へ切りかえたのだった。簡単にいえば、大学を卒業すると、十分にサッカーができる環境や条件が当時はなかったということである-若い世代にとってもボールは不足しているし、食糧難などと、決してよい環境とはいえなかったが。

6月に行われた韓国との予選では、この若さと粘りで、1勝1敗後の抽選で本大会出場権を得ることができた。しかし、本大会は、やはり経験と技術の差が出て、この日、対戦した地元のオーストラリアに、前後半に各1点ずつを取られて、0-2で完敗してしまった。

 しかし、この大会に参加した若い選手たちが、ヨーロッパの一流プレーを目の当たりにしたことは、その後の日本サッカーにとって、非常に有意義なものとなった。それが、8年後の東京大会、12年後のメキシコ大会での好成績につながっていたのである。

 この日、出場した選手は以下のとおりである。

GK古川 DF平木、高森 MF佐藤、小沢、大村 FW鴇田、内野、八重樫、小林、岩淵

 

11月28日(1995年) トヨタカップ アヤックスvsグレミオ(生観戦)

 トヨタカップとは、欧州チャンピオンズ・リーグで優勝したチームと、南米リベルタドーレス杯で優勝したチームとが争う大会である。1960年から1979までは、「インターコンチネンタルカップ」という名称であった。ホーム・アンド・アウエィで開かれていたが、南米での試合でのサポーターの異様なまでの昂揚ぶりに、欧州側の優勝チームが出場を辞退するようになり、やむなく中止の運びとなった。しかし、この大会復活を望む声が高まり、大会中止の経緯を考慮して第三国(中立国)での開催を考えることとなった。その結果、トヨタ自動車のバック・アップなどにより、1980年に日本を会場として「トヨタカップ」という名称となり復活した。つまり、簡単にいってしまえば、トヨタカップとは、欧州対南米の王者を決める大会である。世界5大陸のサッカーのレベルから見て、世界で一番強いクラブチームを決める大会といっていい。

 この日の試合は、第16回大会のアヤックス(オランダ)対グレミオ(ブラジル)戦であった。グレミオの監督は、2002年ワールドカップでブラジルを率いて優勝したフェリペ監督であった。国立競技場に約47,000人の観衆を前に0-0の熱戦であった。この当時の日本国内の試合では0-0のゲームでは納得いかないものがあったが、さすがに世界の一流レベル、随所に見せ場があったと記憶している。結局はPK戦を4-3でアヤックスが勝利をものにした。このときのアヤックスは非常に強く、1年半の間、公式戦66試合不敗記録をつくったチームであり、この日の試合がその66試合目であった。後のオランダを背負う若き日のデブール兄弟、ダビッツ、オフェルマース、そしてクライファートらを擁していた。なお、フェリペ監督率いたグレミオは、トヨタカップに出場したブラジルのチームとして敗戦した初のチームになってしまった。

          

トヨタカップの歴史

大会 西暦   優勝チーム        準優勝チーム        試合結果

01回 1980年 ナシオナル・モンテビデオ ノッティンガム・フォレスト  1-0

02回 1981年 フラメンゴ         リバプール              3-0

03回 1982年 ペニャロール        アストン・ビラ            2-0  

04回 1983年 グレミオ           ハンブルガーSV           延2-1

05回 1984年 インディペンディエンテ    リバプール                         1-0

06回 1985年 ユベントス          アルヘンチノス・ジュニアーズ           2-2/4PK2

07回 1986年 リバープレート       ステアウア・ブカレスト       1-0

08回 1987年 FCポルト         ペニャロール           延2-1

09回 1988年 ナシオナル・モンテビデオ  PSVアイントフォーヘン  2-2/7PK6

10回 1989年 ACミラン         ナシオナル・メデリン        延1-0

11回 1990年 ACミラン                    オリンピア                        3-0

12回 1991年 レッドスター・ベオグラード    コロコロ               3-0

13回 1992年 サンパウロ         バルセロナ            2-1

14回 1993年 サンパウロ         ACミラン            3-2

15回 1995年 ベルス・サルスフィエルド  ACミラン           2-0

16回 1995年 アヤックス          グレミオ            0-0/4PK3

17回 1996年 ユベントス          リバープレート        1-0

18回 1997年 ボルシア・ドルトムント   クルゼイロ           2-0

19回 1998年 レアル・マドリード           バスコ・ダ・マ              2-1

20回 1999年 マンチェスター・ユナイテッド      パルメイラス          1-0

21回 2000年 ボカ・ジュニアーズ           レアル・マドリード             2-1

22回 2001年 バイエルン・ミュンヘン      ボカ・ジュニアーズ            延1-0

23回 2002年 レアル・マドリード     オリンピア                       2-0

24回 2003年  ボカ・ジュニアーズ           ACミラン         1-1/3PK1

25回 2004年  FCポルト          オンセ・カルダス     0-0/ 8PK7

※2005年以後、大会をFIFAクラブワールドカップに継承。今年はアジアチャンピオンとして鹿島アントラーズが出場する。

 

11月29日(1956年) メルンボルン・オリンピックで再ゲーム

 第16回オリンピック・メルボルン大会は、これまでヨーロッパとアメリカに限られていた開催地が、それ以外で行われた初の大会であった。今日ほどグローバル化しておらず、オーストラリアといえば遠隔地という印象がぬぐえない時代だった。サッカー競技に参加申しこみをした国はわずか37か国であったそうである。それでも過去最高の申しこみ数であったというから驚きである-ちなみに2004年行われた第28回アテネ大会では、アジアだけで36カ国が予選にエントリーした。本大会には16カ国が出場予定であったが、ハンガリー動乱の影響等で、最終的には11カ国となってしまった。

 この11カ国の中で、アジア勢は日本、インドネシア、タイ、インドの4カ国。日本とタイは、1回戦で早々に敗退してしまった。この日行われた準々決勝で、インドネシアはソ連と延長までもつれたが0-0で引き分けた。その結果、驚いたことに翌日に再ゲームという形が取られたのである。今日では考えられないことであるが、当時はPK戦で勝者を決着するということはルールの上でも発想の上でもなかった。再試合では、4-0でソ連が圧勝。ソ連はその後も勢いに乗り、準決勝でブルガリアを、決勝でユーゴスラビアを破り優勝した-インドは4位と健闘した。

 ところで、アジア勢の顔ぶれを見ると西アジアの国は1ヵ国もいないところが、現在の様相と異なるもうひとつの点である。最近では、ワールドカップでもオリンピックでも必ず中東勢が顔を出している。2004年に中国で行われたアジア・カップでも、ベスト4に残ったのは日本、地元中国の他はイランとバーレーンである。

 

11月30日(1872年) 初のサッカー公式国際試合、開催

 サッカーがイギリスで近代スポーツとしての体裁を整え、全世界に広まっていったことはよく知られているとおりである。その草創期にC.W.オルコックという1人の男がいくつかのアイディアを出し、サッカー発展に大きく貢献したことを忘れてはならない。彼はプレーヤーとしても、チームのキャプテンとしても優れていたばかりでなく、フットボール協会(FA:The Football Association)の事務局長としても優れた才能を発揮した。

 オルコックの主な功績は、①FAルールによる地域対抗試合を推進したこと  ②地方のサッカー協会をFA傘下に統一したこと  ③FAカップを創設してトーナメントによる優勝制度を確立したこと  ④積極的に国際試合を推進し、サッカーを世界に普及させたこと、などである。

 その最初の公式国際試合がこの日、スコットランドのグラスゴーで行われた。スコットランドにはまだ協会は組織されていなかったので、クイーンズ・パークというチームを中心に選手が選抜された。入場券はグラスゴーのアーガイル街にある帽子屋ミラーと洋品店キエイにて1枚1シリングで売り出された。観衆はまずここで入場券を買い求め、会場となったウェスト・オブ・スコットランド・クリケット場に向かった。試合は2,180名の観衆が見守る中で熱戦が展開されたが、イングランド代表もスコットランド代表もともに譲らず、無得点のまま引き分けに終った。

 この試合が契機となって、スコットランドにはサッカーの大ブームが巻き起こった。それまで最もポピュラーだったクリケットは完全にサッカーに圧倒され、衰退の一途をたどった。

 

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 10月から今月までの2ヶ月間、「サッカー この日何が起こったか」を連載して参りました。私の個人的な趣味の世界に勝手にお誘いしてしまいました。毎回楽しんで読んでいただいた方、渋々お付き合いいただいた方、どうもありがとうございました。

 一部の読者の方から「何とか継続してほしい」旨の嬉しいご要望がありますが、正直申し上げて、ネタを探すのは結構大変です(苦笑)。1ヶ月分を作成するのに、短く見積もっても半年ぐらいはかかります。言い訳がましくて恐縮ですが、しばらくの間、この連載はこの11月で終わりに致します。

 サッカー好きの方でここまでお付き合いいただいた方にお願いです。残りの10ヶ月の間に起こったサッカーネタがありましたら、私にお知らせください。一緒につくっていきましょう。

 
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校長だより№28 ほしぞら情報 2018年11月15日
 

校長だより№28 ほしぞら情報

 

2018年11月15日 校長 森田 勉

 

 先週の7日は暦の上では立冬でした。その割には暖かい日が続きましたが、やはり朝晩は冷え込む日が増えてきました。それと時を同じくして、夜空が随分とすっきりしてきました。星々が綺麗に見える季節がやってきて嬉しく感じます。この時期、早朝夜明け前の南の空には「オリオン座」や「冬の大三角」などの冬の星座が見事に光り輝いています。一度早起きしてご覧になるとその日の気分も爽快になると思います。

 ところで、国立天文台では、毎月の「ほしぞら情報」が天文台のHPで紹介されています。今月は、「秋のひとつ星を見よう」と「月が土星、火星に接近」というトピックが紹介されています。前者の星とは、みなみの魚座のフォーマルハウトのことです。今井美樹さんが歌った「私は今、南のひとつ星に、、、」のひとつ星がまさにこの星のことだといいます。後者は、もうすぐ見えなくなる土星と黄色に輝く火星に月が近づいて見える様子を紹介しています。火星の方が高度も高く、月齢8.5の月がそばに輝く姿が綺麗に見えるでしょう。

 国立天文台では、天文台が単独で著作権を持つ著作物は、教育利用に関しては事前の許諾なく利用することができるということですので、HPに載っていた絵を以下に掲載しておきますね。ぜひ一度閲覧して、それを参考に夜空を眺めてほしいと思います。

 なお、蛇足ながら、私は、「星空案内人(星のソムリエみたか)」の資格(2011年3月NPO法人三鷹ネットワーク大学推進機構にて取得)を持っています。また別の機会にその話や、今回少し出てきた冬の星座や月齢などについての話をご披露したいと思っています。

 

 

★サッカー この日に何が起こったか

11月15日(1998年) 法政一高、錦城高校に競り勝つ

 きわめて私事の話で申しわけない。私が本校赴任前に勤めていた法政一高(現法政大高)サッカー部にまつわる話を紹介しておこう。

 法政一高には、私が教員になった1980年までサッカー部がなかった。しかし、サッカー部を創りたいという生徒の要求は非常に強く、そして多くあった。多少サッカー経験のある私が教員になったことで、その動きに勢いがつき、その年の途中から同好会としてスタートしたのがはじまりである。翌年、高体連に加盟し、公式戦にも出られるようになった。最初のころは、どのチームと対戦しても大敗の連続であったことを憶えている。練習場所もなく、近所の善福寺公園や井の頭公園の空き地で遠慮しながらボールを蹴るという厳しい環境でもあった。

 しかし、「継続は力なり」である。徐々にチームは力をつけていく。それと同時に学校全体の理解も増し、グランドや校内施設での練習も可能になってきた。1985年ぐらいから、地区予選の決勝までは進出できるようになってきた。初の都大会出場は1994年のインターハイと選手権であった。その後、また都大会から遠ざかり、久しぶりに訪れたチャンスが、この1998年の新人戦であった。

 1回戦は11月1日の都立拝島高校戦で2-0と快勝。2回戦は3日の都立武蔵野北高校と4-0で圧勝。地区予選準決勝がこの日の錦城高校戦であった。

 このブロックのチームの中で1、2の実力あるチームで、ひとつの山場であった。フィジカルの強い錦城高校に対して、1対1の粘り強い守備からボールを奪って逆襲し、時間をかけないでフィニッシュまでもっていく攻撃が見事に実を結び、この新人戦の大会でベストゲームといえるほどの内容で2-1と快勝し、決勝戦に駒を進めることができた。

 錦城高校は今でも昭和第一学園高校のライバルと言えるほどの強いチームである。

 

11月16日(1991年) 第1回女子ワールドカップはじまる

 第1回世界女子世界選手権(女子ワールドカップ)が、この日から11月30日まで中国の広州市を中心に5都市、6会場で開催された。

 日本は、予選リーグBグループで、アメリカ、スウェーデン、ブラジルと対戦、全敗で決勝トーナメント進出はならなかった。優勝はアメリカ、準優勝はノルウェーであった。

 その後の女子ワールドカップの記録は以下のとおりである。

(大会回数)(開催年)(開催国)    (優勝)   (日本チームの成績)

 第1回      1991年  中国            アメリカ   12位

 第2回    1995年  スウェーデン  ノルウェー  ベスト8

 第3回    1999年  アメリカ      アメリカ   予選リーグ敗退

 第4回    2003年  アメリカ      ドイツ    予選リーグ敗退

 第5回    2007年    中国      中国         予選リーグ敗退

 第6回      2011年    ドイツ       日本     優勝

 第7回      2015年    カナダ       アメリカ     準優勝 

 第8回      2019年    フランス  

 2011年の日本代表(なでしこジャパン)の優勝は記憶に新しい。優勝候補のアメリカを相手に2度のビハインドにも粘り強く戦い、2-2の同点で迎えたPK戦を3-1で制し、見事初優勝を飾った。この年の3月11日発生した東日本大震災で傷ついた多くの人々に勇気をもたらす成果であった。 

 

11月17日(1968年) 空前のサッカーブーム到来

 この月の1ヶ月前(10月)に行われたメキシコ・オリンピックで、日本が堂々の銅メダルを獲得した。その影響で、空前の一大サッカーブームが起こったのである。この日の日本サッカーリーグ、三菱重工対ヤンマーディーゼル戦では、なんと国立競技場に40,000人の観客が集まりリーグ新記録を打ち立てた(1989年のダブルヘッダー読売vs.三菱戦、日産vs.ヤマハ戦での41,000人まで破られなかった)-当時の観客動員の発表の仕方はプロ野球にならっていたようで、何百何十何人までは確認できない。Jリーグ開幕以降、日本サッカー界では、正確な有料入場者数を確認・発表している。

 ところで、なぜこの試合に、当時としては珍しく人が集まったかといえば、2大スター選手の競演があったからである。それは、三菱の杉山とヤンマーの釜本である。先に述べたメキシコ・オリンピックの好成績も、この2人の大活躍があったから実現したといっていい。左ウィングの杉山とストライカー釜本の2人のコンビによる攻撃力は抜群であった。この日の試合は釜本が同点シュートを決め1-1で引き分けた。

 なお、この年、リーグを制したのは、東洋工業であった。

 

11月18日(1973年) 日本サッカーリーグ 日立vs藤和戦(生観戦)

 私が高校3年生のときに観戦した試合である。このころは、よく日本サッカーリーグの試合を観に行ったものである。Jリーグの盛んな現代に、もし私が高校生だったら大変であっただろう(笑)。しかし、生徒たちにも、もっと多くの試合を観戦してほしいものである。身近によい手本がたくさんあり、それを見るチャンスは私の高校時代の比ではない。自分のポジションと同じ選手を1試合見続けていても勉強になる。ぜひ活用してほしい。

 ところで、この試合は、日本リーグ第16節の試合で、国立競技場で行われた。当時の日本リーグ戦は第18節まであった。首位を行く三菱重工を追う2位日立製作所はこの試合に勝って望みをつなぎたいところであったが、0-1で藤和不動産に敗れてしまった。この日同時刻に西京極で行われた三菱vs.ヤンマー戦で三菱重工が引き分けたために、最終節を待たずに三菱の優勝が決まった。

 この日のゲームには、今は、テレビ解説者でおなじみのセルジオ越後が藤和のMFとして出場していた。現在の半分ぐらいしかない(?)体形で、さすが元ブラジル代表というプレーを随所に見せていたことを憶えている。今の高校生には信じられないだろうが。  

 

11月19日(1978年) 日本代表vsソ連代表(生観戦)

 私は、当時、生物物理系の大学院2年生で「ゾウリムシ」を研究していた。ちょうどこの日、横浜国立大学で行われた「日本原生動物学会」での発表を午前中に終え、急いで国立競技場に駆けつけたことをよく憶えている。

 お目当ては、オレグ・ブロヒンを擁するソ連代表であった。それというのも、この当時の日本サッカーは「冬の時代」と称され、日本代表は国際試合に出ると負け、国内リーグは中盤での攻防に終始しすぎ、ゴールの魅力が感じられないゲームばかりが目立つ、という具合で、面白みを感じなかったからである。唯一のお目当ては、有名チーム(選手)の来日による代表との国際試合ぐらいであった。

 1960年代以降、ソ連から多くのチームが来日し、日本チームも何度もソ連に遠征しているが、代表チームとの対戦はこの日がはじめてであった。このときのソ連代表チームは、ワールドカップ・アルゼンチン大会の予選で敗れ、大幅に若返っていた。先にあげたオレグ・ブロヒン(ウクライナ人)やテクニシャンのキピアーニ(グルジア人)など、ロシア人以外のほうが多いチームでバランスが取れていた。

 試合は前半4分に日本が先制する。MF藤島からの右クロスをFW碓井が折り返したところにFW藤口が詰めてゴールを奪う。しかし、前半のうちに3点を取られ、結局1-4で完敗した。お目当てのブロヒンは怪我で出場せず、私はがっかりして試合後の帰宅への足取りも重かった。

 後日行われた第2戦、第3戦も1-4、0-3で日本の完敗に終わっている。日本は、この年12月から行われたバンコク・アジア大会の前哨戦としてこのシリーズを位置づけていたが、何ら実りあるものを感じ取ることができなかった。案の定、アジア大会では、1次リーグでクウェートと韓国に敗れ、2大会連続で1次リーグ敗退という無残な結果に終わった。

 この時期は、日本サッカー最悪の時期であったといっても過言ではない。現在の日本サッカー隆盛の時代から見ると嘘のように思われるかもしれない。この日の観客も27,000人である。いくら親善試合だからといって代表チーム同士の試合でこの数字であることからも、当時の状態を見て取ることができるだろう。しかし、現在の盛況も現状に甘んじていれば、すぐに凋落してしまうものである。油断しないように、日本サッカーを底辺から支える1人として注意深く見守っていきたいと思っている。

 

11月19日(1999年) 第5回アジアスーパーカップを磐田が制す

 アジアクラブ選手権(アジア各国のリーグを制したクラブチームで競う大会)の勝者と、アジアカップウィナーズカップ(各国最高位のカップ戦を制したチームで競う大会)の勝者間で争う戦いであり、まさしくアジアナンバーワンのクラブチームを決めるものといってよい。2002年のシーズンからアジアチャンピオンズリーグがはじまったために、この大会も第8回をもって幕を閉じた。

 Jリーグのジュビロ磐田が、この日、第5回大会で、サウジアラビアのアルイテハドと敵地で戦い、1-2で敗れたが、アウエィ得点2倍方式のため(第1戦はホームで1-0の勝利)、初の優勝を飾った。

 この結果、ジュビロ磐田は第2回FIFAクラブ世界選手権の出場権を獲得した。しかし、財政的な面がネックとなり、この世界選手権は2003年まで延期となってしまい、ジュビロ磐田の世界挑戦は残念ながら実現しないままでいる。

 

11月20日(2002年) ジーコ・ジャパン、アルゼンチンに敗れる

 ジーコ・ジャパン第2戦。ジーコ監督は母親が直前になくなり帰国中であったが、強豪アルゼンチンが相手とあって、埼玉スタジアムには61,816人の観客が集まった。日本代表の海外組みはFW鈴木とMF中村だけであったが、前半はいい攻撃も見られ、面白い展開の試合であった。しかし、後半1分と2分に立て続けに2失点を喫し敗れた。

 このときのメンバーは、GK楢崎 DF秋田、名良橋(→山田)、中西、松田 MF福西、中村(→三都主)、小笠原(→遠藤)、中田浩 FW鈴木(→中山)、高原である。

システムが4:4:2からJリーグで多用されている3:5:2に変わったこと、ディフェンダーが若手に切りかわったことを除くとそれまでの代表メンバーと大きな違いはない。中田英、稲本、小野などが不在であることに変わりはないからだ。ジーコ・ジャパンがスタートした2002年10月16日のジャマイカ戦では、海外組の4人が中盤を占め話題を呼んだ。

 ジーコの前任者であるフランス人のトルシエは、徹底して自分の決めた戦術に選手を当てはめる戦い方をした。個性よりも組織を重んじる日本人の国民性がマッチし、ワールドカップ予選リーグ突破という好成績を残すことができた。しかし、同じワールドカップの決勝トーナメント1回戦で、トルコに1点を奪われたトルシエ・ジャパンは、相手を慌てさせるような予想外の攻撃を展開することができずに敗れてしまった。最初から最後まで決められた戦術に縛られ、意外性あるプレーを見せる選手がいなかった。組織サッカーを重視したあまり、約束事を破ってでも勝利に邁進する姿勢は生まれなかったのである。これは、トルシエの采配の問題もあるが、日本サッカーの底流にある根本的な問題が露呈したと見ることもできる。

サッカーは、試合がはじまってしまえば、監督やコーチの指示をひとつひとつあおいでプレーすることはできない。個々の局面で、個人個人の選手が最もよいプレーを選択する戦術眼とイマジネーションを有していなければならないのだ。長く日本に滞在し、日本サッカーに造詣の深いジーコは、日本選手の弱点に気づいていた。世界のサッカー一流国と伍して戦うには、戦術どおりに試合を運ぶだけでなく、個々の選手の才能を存分に発揮し、場面々々で豊かなイマジネーションを発揮し、ピンチを切り抜け、チャンスをものしなくてはならないということである。

 この日の試合以降2,004年の春ごろまで、ジーコ・ジャパンの評価はあまり高くなかった。結果がついてこなかったことが一番の原因であるが、選手の自主性に任せる姿が放任に映ったからであろう。しかし、日本サッカーが世界の強豪国と呼ばれるようになるには、いつしかジーコのねらいを具現化できるチームにならなくてはならない。2004年8月7日、ジーコ・ジャパンは、アジア・カップで優勝した。国際試合で引き分けをはさみ10連勝の記録もつくった。ようやくジーコイズムが浸透してきた成果であった。しかし、2006年のドイツワールドカップでは、予選リーグで敗退してしまった。日本サッカーが世界と伍して戦っていくにはもう少し時間が必要であることを痛感したものである。

 

11月21日(2002年) 高円宮殿下薨去

 日本サッカー協会の名誉総裁を務められ、日韓ワールドカップ開会式にも参列された、高円宮憲仁親王が、この日47才で薨去された。スポーツ好きの殿下らしく、最期もスカッシュの最中にお倒れになったということである。

 高円宮杯とは、各種競技大会の優勝者に高円宮より贈られる優勝杯の名称である。それが転じて、その名前を冠する競技大会の名称をさすのが慣習となっている。サッカーで「高円宮杯」といえば、「全日本ユースサッカー選手権大会」のことを指している。

殿下が、妃殿下とともに日本代表チームの試合の際、選手を一人ひとり励ます姿が記憶に残っている。「サッカーの宮様」と称されるとおり、サッカーをこよなく愛されているご様子であった。殿下亡きあと、妃殿下の久子様が名誉総裁職を継いでいる。

 

11月22日(1998年) 法政一高、新人戦で初優勝

 11月15の話の後日談である。東京都の高等学校新人戦地区予選準決勝で、強豪の錦城高校を破り勢いに乗る法政一高サッカー部は、この日、都立小金井北高校との決勝戦を迎えた。この年の小金井北高校はキャプテンの選手(中盤とフォワードをこなす好選手であった)を中心によくまとまったチームであった。試合内容は非常に拮抗したものであり、2-1の逆転し、見事新人戦で優勝を飾ったのである。私にとってとても思い出深い試合であったので、僭越ながら紹介させていただいた。

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 どんな大会でも優勝の味は格別です。昭和第一学園高等学校サッカー部も優勝を目指して頑張ってほしいと願っています。私も微力ながらお手伝いしていきます。

 
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校長だより№27 オフサイド 2018年11月09日
 

校長だより№27 オフサイド

 

2018年11月8日 校長 森田 勉

 

 11月4日(日)に秩父宮競技場で行われたラグビー関東大学対抗戦グループの試合を観戦してきました。第1試合の慶応大学対明治大学の試合は、28-24という競ったスコアで慶応大学が逆転勝ちをしました。まさにラグビーの伝統校同士の白熱した好試合でした。来年は日本でラグビーのワールドカップが開催されます。そうしたこともあってか、ラグビー熱が少しずつ高まってきているような感じがします。みなさんも、ぜひ一度スタジアムで観戦されることをお勧めします。ルールが分からないから、という人も多いのですが、選手同士の気迫あふれるぶつかり合いやスクラム、必死のタックル、そして、見事なパスワークからの展開などは生で見れば、きっと楽しめるはずです。

 「ラグビーやサッカーは今ひとつ、、、」と言って見たがらない人の中でよく耳にするのが、「オフサイドが分からないから」というものが多いようです。そこで、今回の『だより』では、このオフサイドについて少し解説しておきたいと思います。

 そもそもサッカーやラグビーは、このオフサイドというルールがあるから面白いと私は思っています。ラグビーについて言えば、ボールの位置より前側(相手側)がオフサイドであり、こちら側(味方側)がオンサイドと言います。オフサイドポジションにいる選手がプレーしたり、プレーに関与したりすれば反則となります。ですから、それを避けるために、キックで前に進むか、ボールを(前側には投げられないので)後ろ後ろにつなぎ続けて前に進んでいくという方法を採ります。そして、何とか、相手側のゴールラインの向こう側にボールを押さえれば、「トライ」と言って自分のチームに5点が入ります。何だかまどろっこしい気がしますか? 

 もともと、古くからイングランドやフランスの農村で大勢の人同士がボールを蹴り合ったり、そのボールを取るために揉み合ったりする遊びが盛んに行われていました。それは、宗教的な意味合いや共同体としての儀式、すなわちお祭りのような形でプレイされていたようです。豚の膀胱を膨らませてボールとして使っていたとも言われています。球形を転がすことによって、それを太陽の象徴として見立て、村中の土地が肥沃になるような儀式であった可能性が高いと思います。村の端っこと端っこにゴールを設け、そこにボールを持ち込んだら終了するといったお祭りであったのでしょう。村人総出で蹴ったり走ったり、つないだり、揉み合ったりして、わいわいがやがやと楽しんだに違いありません。そうした祭りはすぐに終わっては面白くありません。だから、待ち伏せして、ボールをゴールにもちこむ行為は禁じ手なのです。こうしたことがオフサイドの反則につながっているものと考えられます。オフサイドという反則はわざわざ点を取りづらくしてあるということです。でも、近代ラグビーやサッカーでは、点が入らなかったらいつまでも終わらないというのでは困りますから、時間制限があるということになります。

 したがって、点数が入りにくい競技の中で、工夫して何とかゴールを奪いに行く、そこにこれらの競技の魅力があると言っていいでしょう。しかし、だからと言って点があまり入らない試合も面白くないと感じるのが人情です。サッカーの試合でも4-3ぐらいのスコアのゲームが一番面白いと感じます(やっている方は大変ですが。笑)。そうしたことを踏まえて考えると、先の慶応対明治の試合は、スコア的にも満足のいく試合だったと思います。

 

★サッカー この日に何が起こったか

11月8日(1992年) 日本、アジア・カップ初制覇

 アジア・カップ第1回大会は、1956年香港で行われた。それから4年に1度の割合でアジアのチャンピオンを決める大会として続いている(2007年からワールドカップの翌年に開催されるようになった)。日本は、第4回大会の予選に初出場したが敗退。第6回も同じ結果に終わる。第9回大会には決勝大会に進んだがグループ最下位という成績であった。1992年の第10回大会は地元広島での開催、日本にとっては4度目の挑戦はということであった。

 この年の日本代表チームは、オフト監督のもと、非常によくまとまっており、予選リーグを1勝2分け(対UAE0-0、対北朝鮮1-1、対イラン1-0)で乗り切り、準決勝で中国を3-2でくだし、決勝に進出した。

 この日の決勝の相手は、前回優勝のサウジアラビア、日本は前半36分FWカズ(三浦)からの絶妙なセンタリングをCF高木が胸でワントラップ・シュート。これがゴール右スミに見事に決まり決勝点となり、実力でアジアのチャンピオンの座を勝ち取った。

 日本以外の国では、サッカーを国技としている国が多い。したがって、アジアでもチャンピオンになるというのは容易なことではない。この栄冠は、1968年のメキシコ・オリンピック第3位に優るとも劣らない成績であるといえる。

 この試合の日本代表チームメンバーは以下のとおりである。

 GK前川 DF堀池、柱谷、井原、都並 MFラモス、北沢、福田、吉田(→勝矢) 

   FW高木、三浦

  ◇アジアカップの歴史

       開催年  開催国   決勝

第1回  1956年 ホンコン   優勝:韓国 2位:イスラエル(リーグ戦形式)

第2回  1960年 韓国     優勝:韓国 2位:イスラエル(  〃  )

第3回  1964年 イスラエル  優勝:イスラエル 2位:インド(  〃  )

第4回  1968年 イラン    優勝:イラン 2位:ビルマ (  〃  )

第5回  1972年 タイ     イラン 2-1 韓国

第6回  1976年 イラン    イラン 1-0 クウェート

第7回  1980年 クウェート  クウェート 3-0 韓国

第8回  1984年 シンガポール サウジアラビア 2-0 中国

第09回 1988年 カタール   サウジアラビア 0-0(PK4-3)韓国  

第10回 1992年 日本     日本 1-0 サウジアラビア

第11回 1996年 UAE    サウジアラビア  0-0(PK4-2) UAE

第12回 2000年 レバノン   日本 1-0 サウジアラビア

第13回 2004年 中国     日本 3-1 中国

第14回 2007年 インド・マレーシア・タイ・ベトナム共催 

                イラク 1-0 サウジアラビア

第15回 2011年 カタール   日本 1-0 オーストラリア

第16回 2015年 オーストラリア オーストラリア 2-1 韓国

第17回 2019年 UAE

※  日本は最近の7大会で優勝4回とアジアの強豪として君臨しはじめている。

 

11月9日(1980年) 世界のクライフ登場も凡戦で日本負ける

 北米リーグのワシントン・ディプロマッツを率いて、有名なヨハン・クライフ-1973年アヤックスからスペインのバルセロナに移籍。移籍金は当時最高の92万2000ポンドだった。1978年に代表チ-ムを引退、バルセロナを離れて北米リーグに移籍-が来日した。

過去から現在までの間で一番好きな選手の名前をあげろ、といわれれば、私は間違いなく二つ返事で、ヨハン・クライフと答えるであろう。それほど好きな選手である。全盛期の戦術眼・スピード・テクニックは素晴らしかった。当時のクライフを超える選手を未だ見たことはない。左右どちらの足でもインフロントとアウトフロントを使いこなせる凄い選手であった。

 若干15才でスカウトの目にとまり、一年後にはオランダの名門クラブ、アヤックスと契約するほど、若いときから才能が開花していた。そして19才で早くもオランダ代表の地位を確固たるものにした。バロンドール(ヨーロッパ年間最優秀選手賞)を1971年、1973年、1974年と3回も受賞している名選手である。

 1974年の西ドイツ(現ドイツ)・ワールドカップでの活躍によりその名声を不動のものにした。それまでのディフェンダーはディフェンスのみ、フォワードは攻撃のみという感じであったサッカーのイメージを根本的に変えたのがクライフであった。実際にこのときのワールドカップでも、オランダ以外のチームはそのような形を主流としていた。しかし、オランダは違っていた。当時「トータル・フットボール」と称されたサッカーを志向していたのである。つまり、選手にトータルなプレーを要求するチームであった。分かりやすくいえば、フォワードにもディフェンスを求める現代のチームのようであったということである。その具現化の中心にいてチームを引っ張っていたのがクライフであった。したがって、この人が現代サッカーの出発点であるといっても間違いではないであろう。

 さて、これほどの選手が来日して日本代表とはじめて戦ったのがこの日であった。しかし、試合の中身は凡戦、日本の低いレベルがクライフの能力を引き出せなかったといえる試合であった。ときおりクライフが中央突破を見せるが、何もしてこない日本選手に戸惑う様子さえうかがえた。試合は0-1で日本の負け。日本のファンもブーイング(当時は罵声であった)するほどお粗末な試合をしてしまったのである。日本サッカー“冬の時代”である。

 

11月9日(2004年) サッカーマガジンが通算1000号

 週刊サッカーマガジン(ベースボール・マガジン社)が、この日発売の11月23日号で、通算1000号を迎えた。日本初のサッカー専門誌として、最初は月刊誌として創刊された(1966年)。その後、隔週で発刊されたり、1993年より週刊化されたり、また月刊に戻ったりしながら、長く日本サッカー界の浮き沈みを含めた多様な情報を提供してきた。

 記念すべき1000号には、当時の日本代表のジーコ監督と元代表監督の岡田さんとの対談や、カズのインタビューなどが掲載されている。

 ところで、私が小学校6年のとき(1967年)、サッカーが好きになり、もっと上手くなりたいと思い、父にサッカーの本を買ってくれるようにせがんだことがあった。父の勤務先に出入りしている本屋さんが最初にもってきたのが、当時のサッカーマガジンであった。幼いながら、そのグラビアの美しさなどに感嘆したことを記憶している。しかし、私は、サッカーの教則本のようなものがほしかったので、取り替えて貰ってしまった。今となっては何月号かも分からない。そのサッカーマガジンが手元にあれば、私が、生まれてはじめて目にしたサッカーマガジンとして、非常に貴重なコレクションのひとつになっていたであろうと思うと、残念でならない。ちなみに、私がはじめて手に入れた、そのサッカーの教則本とは、『サッカー』(竹腰重丸著、旺文社、昭和31年)である。

 

11月10日(1963年) 杉山と釜本の大学時代の対決

 この日、翌年の東京オリンピックから1968年のメキシコ・オリンピックまで、日本サッカーを牽引する両雄が関東大学サッカーリーグで対戦している。その2人とは、「黄金の左足」といわれた明治大学3年の杉山隆一と「世界のカマモト」と称された早稲田大学1年の釜本邦茂である。

 杉山はウィンガー、釜本はストライカーとタイプは違うが、両者とも群を抜いているプレーヤーであった。この2人の活躍で1962年明治、1963年早稲田、1964年明治、1965年早稲田と交互に関東大学サッカーリーグの覇者になっている。とりわけ1965年のときは、東京オリンピックの翌年ということもあり、リーグ最終戦でこの2人が対戦した際には、駒沢競技場に大観衆が集まった。

 この日の結果は2-0で早稲田の勝ち。早稲田は、11月23日の最終戦で立教を5-0で破り通算18度目の優勝を飾った。なお、釜本は7試合で11ゴールをあげ、得点王に輝いた-釜本は大学4年まで連続得点王という偉業を達成している-。

大学卒業後、社会人となった2人は、その後の日本サッカー界をしばらく牽引する。メキシコ・オリンピック後の日本サッカーリーグでの対決は今でも語りぐさになっている。

 

11月11日(1956年) 後楽園競輪場でサッカー?

 私が1955年生まれだから、だいぶ前の話であるが、この日、なんと後楽園競輪場で、第30回(1956年度)関東大学サッカーリーグの試合が行われている。試合は、立教対東大、教育大対明治、そして早稲田対中央の3試合である。

 なんで後楽園競輪場なの? と思われる人が多いのではないだろうか。実は、それほどサッカー場が当時はなかった-今も少ない、と文句をいう人がいるかもしれない(笑)-。「日本サッカーのメッカ」と称された前国立競技場もなかった。後楽園競輪場は後になくなり、いまの東京ドームの敷地となったが、東京オリンピックまでは、1956年メルボルン・オリンピック予選の日韓戦をはじめとしてビッグゲームが開催されていた。競輪場内のフィールドが芝生であったということが一番の理由である。今でこそ、芝生の、それも見事な緑の芝生の競技場はめずらしくなくなったが、Jリーグ発足前の段階では国立競技場ですら芝生がはげていることが多々あった。それほど、日本におけるサッカーのステータスは低い時期があったことを忘れてはいけない。

 

11月12日(1967年) 高木琢也の誕生日

 「アジアの大砲」と称された高木琢也が生まれた日である。1992年の北京で開かれたダイナスティカップ-現在の東アジア選手権の前身。日本、中国、韓国、北朝鮮の4カ国で、総当たり1回戦の予選リーグとその上位2カ国による決勝という形式で行われた-で、日本は、1954年にアジアサッカー連盟ができて以来、海外における国際試合の大会で初の優勝を成し遂げた。このときの監督が初の外国人監督のオフトである。そして、このオフトが188㎝の高木を「ターゲットマン」としてトップに好んで起用したのである。高木もその期待によく応え、この大会で通算4得点をあげ得点王に輝いた。

 何といっても、この高木を一躍有名にしたのは、1992年11月のアジア・カップ(広島大会)での決勝戦におけるゴールである。このゴールで、日本がはじめてアジアの頂点に立ったからである。

 この高木、日本代表Aマッチ45試合出場で27得点の成績を残している。これは日本代表得点数歴代7位である。ちなみに1位は釜本の75得点、2位はカズの55得点、3位は岡崎の50得点、4位は原と本田の37得点、6位は香川の31得点である。

 

11月13日(1999年) タイ対日本 : 全勝突破

日本が、この日全勝でシドニーオリンピック・アジア予選を終えた。最終予選最終戦の対タイ戦は、前半21分の平瀬の先制点を皮切りに6-0で圧勝。6月からはじまった1次予選から12戦全勝とし、壮行試合の日韓戦を含めて14連勝でアジアを突破した。いかにも史上最強のオリンピック代表の面目躍如たる勝ちっぷりである。

 この試合のメンバーは以下のとおりである。

  GK南 DF戸田、宮本、中沢 MF中田浩(→市川)、稲本、中村、明神、本山(→藤本) 

  FW小島(→北島)、平瀬

  得点者:平瀬2、小島、明神、市川、藤本

 

11月14日(1953年) ユールゴールデン、全香港に勝つ

 サッカーにおいては、本当に日本とスウェーデンとは縁がある。2004年に行われたアテネ・オリンピックの女子サッカーの初戦も日本対スウェーデンであったし、日本が見事に優勝した2011年女子ワールドカップの準決勝の相手もスウェーデンであった。さらに歴史をひもとけば、1938年の「ベルリンの奇跡」も優勝候補のスウェーデンを破ったことによるものである。そして、戦後ヨーロッパのチームで初来日したのも、スウェーデンのヘルシンクボリである。

ユールゴールデンは、120年以上の歴史をもつスウェーデン・トップリーグのうちの1チームで、ストックホルムをホーム・タウンとし、過去優勝11回を誇る名門チームである。

 現在では、日本代表チームがヨーロッパの代表チームとテスト・マッチを行うのは普通になったが、それもこの25年ぐらいの話しである。それほど、1993年のJリーグ発足以降、日本サッカーは実力を大幅にあげたわけである。それまでは、ヨーロッパのチームと試合をやるといえば、日本代表といえども、相手がクラブチームというのがあたりまえであったのである。このユールゴールデンもしかりである。

 この日の試合は、ユールゴールデンが日本に来る前に立ち寄った香港でのゲームである―これを伝える新聞には、ユールゴールデンが全香港に勝ったことは記されているが、不思議なことにスコアが明記されていない―。そのあとに行われた日本代表との試合では、11月22日に5-1、29日に9-1と圧勝している。そのころの日本の実力のほどがうかがえると思う。

 このユールゴールデン、1970年にも来日して日本代表と対戦している。15日に6-1、19日に2-1、21日に3-0と連勝し、23日の最終戦こそ0-1で敗れたが、その実力をいかんなく発揮した-というより、いかに日本の実力が低かったかということが分かる内容であった-。

 

 
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校長だより№26 PTA校外研修に行ってきました。 2018年11月02日
 

校長だより№26 PTA校外研修に行ってきました。

 

2018年11月1日 校長 森田 勉

 

 10月最後の日曜日の28日にPTA校外研修に参加してきました。総勢約80名、観光バス2台で「小田原めぐり」に出かけました。朝8時20分に立川を出発して、箱根の本間木工所というところでの寄せ木細工、相模湾を望む真鶴港見学、小田原のかまぼこで有名な鈴廣での昼食とお買い物、そしてアサヒビール神奈川工場見学と、なかなか魅力あふれる内容で、好天にも恵まれ私も楽しむことができました。

 午前中最後のメニューの寄せ木細工では、久方ぶりの工作で、木工ボンドを塗ったり、紙ヤスリをかけたりと童心にかえって、なおかつ寄せ木模様の組み合わせに“脳トレ”も兼ね、わいわいがやがやととても有意義な1時間を過ごせました。そして最後のビール工場。貯蔵タンクの生ビール、1日1缶のペースで飲んだとして3,900年かかるという説明に驚いたり、見学後の試飲でまさに溜飲を下げたりと、充実した午後のひとときでした。16時30分にビール工場を出たら、あいにくと東名高速道路が事故渋滞。大井松田インター手前から一般道(246)を使って厚木まで思わぬバスの長旅。18時立川着予定が20時半過ぎになりました。「同じ会費でたくさんバスに乗れるから嬉しい」と超ポジティブにお話しされた保護者の方もいらっしゃいました(笑)。これもまた楽しからずや、というところですね。

 この研修は、PTA研修委員会主催で毎年この時期に行われます。手作業の工作、真鶴港や工場の見学、美味しい料理に舌鼓を打つなど、保護者のみなさんと教職員と、普段できないお子さんにまつわる学校の話などができる和やかな会となりました。この場をお借りして、研修委員会の委員の皆様に対して、心より御礼申し上げます。どうもありがとうございました。

 

★サッカー この日に何が起こったか

11月1日(1991年) 社団法人日本プロ・サッカーリーグ設立

 この日、その後の日本サッカー隆盛の礎となった、社団法人日本プロ・サッカーリーグ(Jリーグ)が設立され、初代チェアマンに川淵三郎が就任した。

 日本サッカー関係者の長年の夢が実現したのである。Jリーグ誕生までの歩みをざっと追ってみよう。

 1988年 … 日本サッカーリーグ(JSL)は、レベルアップを図る目的で「活性

                     化委員会」を設置し、プロリーグの設立構想をまとめた。

 1989年 … JSLは日本サッカー協会(JFA)に「日本サッカーリーグの活性化

                     案」を提案し、JFAはこれを受け、「プロリーグ準備検討委員会」

                     を設置した。

 1990年 … 「プロリーグ検討委員会」が設置され、参加希望の20団体を対象

                     にヒアリングを行った。

 1991年 … 2月、JFAの理事会でプロ・サッカーリーグ参加の10団体(鹿島、

                     市原、浦和、V川崎、横浜マ、横浜フ、清水、名古屋、G大阪、

                     広島)が決定された。

        11月、社団法人日本プロ・サッカーリーグが設立された。

 

11月2日(1997年) アブダビから朗報。UAEが引き分ける。

 この1日前に、敵地で韓国を破った日本に信じられないような朗報が、遠くアブダビ(アラブ首長国連邦の首都)から飛びこんできた。ワールドカップ・フランス大会アジア地区最終予選B組のアラブ首長国連邦(UAE)対ウズベキスタン2回戦が、この日UAEのホーム、アブダビで行われた。そして、なんと日本と2位争いをしているUAEが0-0で引き分けたというのだ。

 日本が前日に韓国に勝ったとはいえ、カザフスタンとの最終戦の1試合を残し、ここまで2勝1敗4分けで勝ち点10である。一方、UAEはウズベキスタン戦の前まで2試合を残し、2勝2敗2分けで勝ち点8であった。つまり、すでにこの時点で本大会出場の可能性を失っているウズベキスタンをホームに迎えるUAE の方が断然有利な状況にあった。

 ところが、サッカーは分からないし面白い。ワールドカップ予選の醍醐味だといってもいいかもしれない。試合内容では完全にUAEが圧倒していたにもかかわらず、スコアレス・ドローに終わったのだ。その結果、UAEの勝ち点は9となり、日本が単独2位に返り咲いた。たとえUAE が最終戦の韓国戦(1997年11月9日アブダビ)に勝ったとしても、日本が、最終戦のカザフスタン戦-すでにカザフスタンも出場の可能性を失っている-に勝てば問題なくB組2位を勝ち取ることができる。そうすれば、A組2位の国との第3代表決定戦に臨むことができるわけだ。日本とUAEの立場は完全に逆転した。

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 この予選は、5カ国による総当たり2回戦(ホーム・アンド・アウエィ)方式で行われ、勝ち点(勝ち3、引き分け1、負け0)の合計で順位が決まる。したがって、試合が消化されるに連れて、順位が入れ替わるということも十分にある。

実際にこの予選では、日本とUAEとの2位争いはマッチレースの様相を呈した。日本は中央アジア遠征の2試合(1997年10月4日のカザフスタン戦、同11日のウズベキスタン戦)を連続で引き分けて、自力2位の可能性を失うという苦境に立たされた。しかし、10月18日にUAEがカザフスタンに0-3で敗れる波乱もあり、10月26日の東京・国立競技場で行われる直接対決を前にして、日本が勝ち点7、UAEが勝ち点8となり、どちらにも可能性が残される展開になった。その後、日本はホームでUAEとの試合に1-1で引き分けたため、再度、自力での2位獲得ができない状況に陥った。ところが、前述のように、日本がアウエィの韓国戦に勝ち、UAEがホームでウズベキスタンに引き分けるという予想外の結果が起こり、日本の自力での2位通過の可能性が復活したというわけである。これだから、ワールドカップ予選はたまらない。むしろ本大会より興奮させられると思う人は私だけではないであろう。

 

11月3日(1945年) ゲルト・ミュラーの誕生日

 ドイツの名門クラブ、バイエルン・ミュンヘンの黄金時代を、有名なベッケンバウアーとともに築いたのが、このゲルト・ミュラーである。ボンバー(爆撃機)の異名をもつミュラーは、1970年代の「点取り屋」、「ストライカー」という代名詞の頂点にいた。1970年のメキシコ・ワールドカップでは、通算10得点をあげて大会の得点王となっている。4年後の地元ドイツ(当時西ドイツ)で開催されたワールドカップでは、決勝の対オランダ戦で世界一を決めるゴールを入れた。ワールドカップ通算14得点は今でも破られていない大記録である。

 この選手の特徴は、華やかさに欠けてはいるが、どんなボールだろうと、どんな態勢であろうとゴールに叩きこむ能力である。確かに、見た目にはずんぐりむっくりしていて垢抜けたところが全然感じられない。お世辞にも格好がいいとはいえないタイプの選手である。しかし、フォワードの最大の仕事は点を取ることである。そのことを考えれば、最もフォワードらしいフォワードといっていいだろう。

 

11月4日(1972年) ルイス・フィーゴの誕生日

 世界のサッカーに目を転じたとき、1990年頃の「黄金世代」といえば、ポルトガルのルイス・フィーゴ、マヌエル・ルイコスタやセルジオ・コンセイソンらの代名詞であるといっていい。彼らを中心としたポルトガルU20代表は、1989年と1991年のワールドユース選手権を連覇するという偉業を成し遂げたのである。その中心的存在が、この日生まれたルイス・フィーゴである。

 フィーゴは、2004年夏、スペインの名門レアル・マドリードの一員としてチームと一緒に来日し、背番号10を背負って日本のジェフ市原と東京ヴェルディと試合をしたので、印象に残っている人も多いことであろう。少し前屈みになりながら緩急を織りまぜたドリブルは逸品であり、日本のディフェンダー連中をきりきり舞いさせていた。左右どちらでもプレーできるが、とくに右足での絶妙なセンタリングは目を奪われるほど素晴らしい。ポルトガルのフル代表ではなかなか満足いく結果を出せなかったものの、スペインリーグでは間違いなく指折りのスーパースターであった。

 1995年にポルトガルのスポルティング・リスボンからスペインのバルセロナに移籍した。そして、2000年には、あろうことか、バルセロナから宿命のライバルチーム、レアル・マドリードへ、当時史上最高額の移籍金約62億円で電撃移籍したのである。このことから物凄い騒動に発展し、バルセロナのホームでは、凄まじいブーイングの嵐で、フィーゴが蹴るCKの際にはピッチへ豪雨のように物が投げこまれていた。それに対してフィーゴも、気にする様子もなく平然とプレーを続けていたのだから凄い。サッカー文化の奥の深さを感じる瞬間でもあった。

 このフィーゴ、2000年にはバロンドール(欧州年間最優秀選手賞)を受賞し、翌2001年にはFIFAの年間最優秀選手賞も受賞したことはよく知られているが、実は、大の日本通としても有名である。日本食、とくに寿司が大好物らしく、以前はバルセロナにレストランをもっていたということである。

 

11月5日(1952年) オレグ・ブロヒンの誕生日

 今の中高生たちは、この選手の名前を聞いても、「この人誰なの?」というかもしれない。しかし、私のようなオールド(?)ファンの中には知っている人もかなりいるはずだ。1975年のヨーロッパ最優秀選手にもなった俊足(100メートルを10秒台で走れる力をもっており、陸上選手としてオリンピックに出るのではないかとまでいわれていたほど速かった)のフォワードで、1982年スペイン・ワールドカップと1986年メキシコ・ワールドカップにもソ連代表として出場した。

 所属チームはソ連の強豪クラブチーム、ディナモ・キエフ(後にオーストリアのフォルベルツ・シュテイルというチームに移籍)である。このチームは、1974年から1975年にかけて行われた、ヨーロッパ・カップ・ウィナーズ・カップ(欧州各国のカップ戦、つまり勝ち抜き方式の選手権の優勝チームによる競技大会)で優勝した。この決勝戦でブロヒンは1得点をあげている。しかし、ブロヒンの名前を強烈に頭に焼きつけることになったのは、ヨーロッパ・チャンピオンズ・カップ(各国リーグを制覇したクラブ同士で争うトーナメントでとても権威ある大会)の優勝チーム、西ドイツの強豪バイエルン・ミュンヘンとの間で行われた欧州スーパーカップであった。このときのバイエルン・ミュンヘンは、1974のワールドカップ優勝メンバーの主力を揃え全盛を誇っていた。ブロヒンは、そのバイエルンのディフェンスを翻弄し、ホーム、アウエィともに連勝し、キエフをカップ獲得に導いた。この大会の大活躍で、国際的名声が高まり、バロンドール(ヨーロッパ年間最優秀選手賞)を受賞したのである。

 ちなみに、1956年から制定されたヨーロッパ最優秀選手の中で、ソ連の選手としては1963年のレフ・ヤシン(伝説の名ゴールキーパーである)以来2人目である―現在ソ連は存在しない。ヨーロッパ・サッカーの歴史を振り返ると冷戦時代を振り返るのとほぼ同じであり、興味深いことも多々ある。

 この1975年のバロンドールの投票では、ブロヒンが122票を獲得し、ベッケンバウアー42票、クライフ27票を抑えて受賞した。この20世紀を代表する2人のスーパースターの名前を見れば、この間に割って入っているオレグ・ブロヒンの有能さをうかがい知ることができるであろう。ちなみに、この前後のヨーロッパ最優秀選手には、前年の1974年が2年連続でオランダのヨハン・クライフが、そして翌年の1976年が4年ぶり2回目の西ドイツ(現ドイツ)のフランツ・ベッケンバウアーが受賞している。

 

11月6日(1999年) 日本対カザフスタン : 五輪出場決定!(生観戦)

 シドニー・オリンピック(2000年)のアジア最終予選C組には、日本、カザフスタン、そしてタイの3カ国が入った。ホーム・アンド・アウエィの総当たり2回戦方式で、勝ち点の一番多い1チームが本大会出場を決める。この日までに、日本が2勝の勝ち点6、カザフスタンが1勝1分け1敗の勝ち点4、そしてタイが1分け1敗で勝ち点1となっていた。残る試合は、この日の日本対カザフスタン戦(ホーム)と11月13日に行われる日本対タイ戦(アウエィ)の2試合である。日本がこのカザフスタン戦に勝利すれば、勝ち点が9となり、最終戦を待たずにオリンピック出場を決めることになる。非常に重要な一戦である。

 このときの日本チームは、いわゆる「黄金世代」といわれ、史上最強のオリンピック・チームとまで称されていた。とくに中盤には、すべての世界大会を経験し、すでにイタリアのセリアAでも活躍していた中田英寿がいた。その他のメンバーを見てもその後の日本を代表する選手たちが顔を揃えている。この試合には、日本のホーム、国立競技場で行われたこともあり、日本の圧勝を期待して多くのサポーターが集まった。私も、二人の息子と一緒にワクワクしながら観戦した。

 試合は予想に反して、カザフスタンが先制する。日本陣内の右サイドで得たフリーキックからヘディングで先取点を取られた。当時の監督はフランス人のフィリップ・トルシエであり、浅いラインを好んで使っていたのが裏目に出た。フリーキックのときにラインをあげるタイミングが一瞬遅れ、その裏に飛びこまれた10番の選手に決められてしまった。しかし、ボールの支配率は圧倒的に日本が優勢であり、点さえ取れれば、勝てるのではないかと思わせる試合内容である。

 後半に入るとまさにそのとおりの展開となる。後半25分、左サイドから中田英寿が見事なセンタリング、それをFW平瀬が頭であわせて同点。同41分には、MF中村俊輔からの見事なスルーパスを平瀬が今度は足で決めて勝ち越し。そしてこの日のクライマックスがやってきた。後半44分、ゴール前で日本がフリーキックのチャンスを得た。ボールに寄るのは、中村と中田、何やら談笑している。主審の笛と同時に、中田が助走してフェイント、キーパーがつられて左にステップ、あとからスタートを切った中村が右隅に決めた。後日知ったことだが、どちらが蹴るかを「口じゃんけん」で決めていたそうだ。凄い余裕である。

 結局カザフスタンを3-1でくだし、日本が最終戦を待たずにシドニー・オリンピックへの出場権を獲得した。1996年アトランタ・オリンピックに続く2大会連続出場を決めた。 

 この試合に出場した選手は以下のとおりである。

 GK曽ヶ端 DF中田浩、宮本、中沢 MF稲本(→高原)、遠藤(→酒井)、

   中村、明神、中田英 FW福田(→本山)、平瀬

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  なお、この日、もうひとつ思い出深い話があるので記しておく。きわめて私事である。昼間、国立西が丘サッカー場で行われた高校サッカー選手権の東京都予選の準決勝、石神井高校対帝京高校戦に、石神井高校のフォワードとして私の長男が出場した。対戦相手には田中達也(2004年オリンピック代表)もいた。試合は3-0で帝京高校の勝利に終わったが、よい試合であったと記憶している。私も普通の“親バカ”の1人である(苦笑)。

 

11月7日(1965年) 第1回日本サッカーリーグ 東洋の優勝で閉幕

 日本のアマチュア・スポーツ界初の全国リーグである、日本サッカーリーグ(Japan Soccer League=JSL)がこの年の6月6日に開幕し、そしてこの日、12勝2分けの成績を残し、東洋工業の優勝で幕を閉じた。

 このリーグは、「大学も実業団も含めたトップクラスのチーム同士による全国リーグをつくるべきだ」というクラマーさんの提言を実現にうつしたもので、ヨーロッパと同様に、ホーム・アンド・アウエィ方式―現在ではあたりまえの方式であるが、当時の日本ではなじみがなかった。日本で、サッカーといえば、トーナメント方式、いわゆる勝ち抜き戦で優勝チームを決める方法が主流であったのである―による2回戦制を採用した。

 このリーグは、その後、バレーボールやアイスホッケーなど日本の他のスポーツが追随したほど、日本のスポーツ界にとっては画期的な取り組みであった。しかしながら、当時は、アマチュアによる全国リーグは社会常識に反するものという考え方もまだ根強く、結局、大学勢は参加を見送り、実業団8チームのスタートとなった。いつの時代でも新風を取り入れるということはやさしいことではない。古い伝統、慣習、常識という壁など、改革を阻害するものはたくさんあるものだ。もしこのとき大学チームがいくつか参加していたら、日本サッカーはもっと早く発展していたのではないかと思うのは私だけであろうか。

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  記念すべき第1回日本リーグに参加したのは、次の8チームであった。成績順

   に、東洋工業、八幡製鉄、古河電工、日立本社、三菱重工、豊田自動織機、ヤン

   マーディーゼル、名古屋相互銀行である。そして、下位2チームが下部組織(発足

   当初は「全国社会人選手権」、1972年以降は「JSL2部」)との入れ替え戦システ

   ムでマンネリ化を防ぐ形で進行していく。

  第9回(1973年)から10 チームに増加する。これも同様に順位順に並べる

   と、三菱重工、日立製作所、ヤンマーディーゼル、藤和不動産、古河電工、新

   日本製鉄、トヨタ自工、東洋工業、日本鋼管、田辺製薬の10 チームであった。

  その後、第21 回(1985 年)からチーム数が12 に増える。このときの12

   チームは順位順に以下のとおりであった。古河電工、日本鋼管、本田技研、フ

   ジタ工業、日産自動車、ヤマハ発動機、三菱重工、日立製作所、読売クラブ、

   ヤンマーディーゼル、住友金属、全日空。

  日本リーグは、1992 年3 月29 日の第22節で27 シーズンの幕を閉じた。

    有終の美を飾ったのは、読売クラブであった。

      JSL優勝チーム(通算優勝回数順)

  東洋工業  5回(1965~1968年度、1970年度)

  読売クラブ 5回(1983年度、1984年度、1986年度、1990年度、1991年度)

  三菱重工  4回(1969年度、1973年度、1978年度、1982年度)

  ヤンマー  4回(1971年度、1974年度、1975年度、1980年度)

  フジタ工業 3回(1977~1979年度)

  古河電工  2回(1976年度、1985年度) 

  日産自動車 2回(1988年度、1989年度)

  日立製作所 1回(1972年度)

  ヤマハ発動機1回(1987年度)

 

 
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校長だより№25 入試説明会 2018年10月27日
 

校長だより№25 入試説明会

 

2018年10月26日 校長 森田 勉

 

 10月20日(土)に今年度第1回本校の入試説明会を開催しました。全部で1,343名の方にお越しいただきました。ご出席いただいた皆様のご協力もあり、無事に終了しました。本当に有り難いことです。何か至らないことがございましたら、この場を借りてお詫び申し上げます。

 参加されている中学生の真摯な姿勢にいつも感銘を受けます。すべてのみなさんが、希望通りの進路決定がかなうように祈っています。私もこの時期になると、もう48年も前のことですが、中学3年生の頃を思い出します。今のように各校が主催する説明会はありませんでした。インターネットもありませんので、『学校案内』を頼りに自分で自分に合った学校を探し、気に入った学校の見学に出向いたことを思い出します。確か、年末の押し迫った12月の20日頃に出かけたと記憶しています。今から比べるとずいぶんとのんびりしていました。でも、受験に向けての不安や受験当日の緊張感は今と変わらず大変だったことを覚えています。1月末から2月の頭にかけて10日間ほど高熱で学校を休んだこともありました(インフルエンザだったのかもしれませんね)。2月中旬にもなっても体調が戻らず苦労したことなどがだんだんよみがえってきます。そういう体験をしているので、受験生には、ぜひ体調を壊さず、気を病まず乗り越えていってほしいと願っています。

 ところで、10月20日の説明会では、次のような言葉をお伝えしました。それは「人は思春期の文化を糧にして生きている」という言葉です。それほど高校3年間は大切だということです。この3年間での「学ぶ」経験が、その後の人生に大きく活きてくるからです。この「学ぶ」経験は、教科の勉強に限りません。学校行事やクラブ活動、そして友人関係等々ありとあらゆることが、時には遊びも含めて、自分の人格形成にとって重要な経験となります。しかも多感な時期に経験することの中には、自分が本当に大きく変化し、進化することを実感できる経験というものが一つや二つはあるものです。受験を終えて高校に進学すると、こうした素晴らしい高校という世界が待っています。

 私事ですが、同じ20日の夜、高校時代のサッカー部の同期と一つ下の学年の集まりがありました。いわば同じ釜の飯を食った仲間たちです。会が始まってすぐに、引退試合の様子や日々の厳しいトレーニングや合宿の様子など、ほとんどみんなが同じピクチャーを描いて思い出話に花が咲きました。先ほどの言葉が実感できる光景でした。それほど、私にとっての高校時代、とくにサッカー部で過ごした時間と空間は、私の“心のふるさと”なのです。そのふるさとがあるから今があると言っても過言ではありません。受験生のみなさん、もう少しですから、頑張ってください。

 

 

★サッカー この日に何が起こったか

10月26日(1,863年) イギリス初の統一組織、FAの結成が決まる

 イングランド南部の学校代表者とクラブ代表者が、この日、ロンドンのグレー・クイーン街にある居酒屋「フリーメイソンズ・タバーン」に集結した。そして、フットボールのイギリス初の統一組織「フットボール協会」(FA=The Football Association)の結成と年会費1ギニーとすることを全員一致で決定した。

 しかし、統一ルールについては結論が持ち越された。つまり、フットボールがサッカーとラグビーに分裂独立する前の段階での、統一組織の結成決議がなされたということである。後に、ラグビー派はFAから脱会して別の組織「ラグビー・フットボール・ユニオン」を結成したので、自動的にこのFAがサッカーの統一組織となった。

 この日集まってきたのは15人の若者たちで、そのほとんどはパブリック・スクール出身者。狩猟用のシルクハットをかぶり、ヒゲをたくわえ、ステッキを小脇にかかえ、当時流行していたパイプたばこをくゆらしていた。

 この日の会合の最大の目的は、フットボールがそれぞれの学校やクラブの独自のルールのもとで個々バラバラにプレーされている実情を改善し、お互いに交流試合のできる「共通ルール」を模索することにあった。議長はギルバーン・クラブのペンバー。参考資料として提出されたのはシェフィールド・クラブのルール(1857年)とケンブリッジ大学のルール(1862年、1863年)であった。しかし、これらのルールは「ドリブリング・ゲーム」としての性格の強いものばかりであったので、「ランニング・ゲーム」支持派には不満であった。そこで、両方の参考資料を持ち寄って再度話しあいをもつこととなり、全部で6回の会合がもたれたということである。

 

10月27日(1968年) 立大、法大に完敗

 この標題は、翌日の朝日新聞スポーツ欄に載った記事の見出しをそのまま載せたものである。今の人がこの見出しを見たら、東京6大学野球の結果だろうと思うに違いない。しかし実際は、関東大学サッカーリーグの結果を知らせる記事である。

 この日、1968年度の関東大学リーグの第4週第2日目の試合が行われた。前日、優勝候補同士の早稲田大学対東京教育大学(現在の筑波大学)が2-2で引き分け、立教大学が法政大学に勝てば単独首位に躍り出る大切な試合であった。見出しの書き方からしても、立教の方が法政よりも強いと思われていたので、こうした「敗れる」ことがニュースになったと見て取れる。この日、法政が3-1でこの試合をものにした。その結果、この段階で、早稲田と東京教育大が勝ち点6で首位、3位に勝ち点5の立教、4位が勝ち点4で明治、慶応、法政が並んで、優勝争いが混沌としてきた様相を呈している。

 ところで、2018年現在、この6つの大学で関東大学リーグ1部にいるチームは、早稲田、明治、法政、筑波の4つであり、慶応と立教は2部に甘んじている。

 

10月28日(1993年) 日本ロスタイムに泣く

 やはり、この日は「ドーハの悲劇」である。初のワールドカップ出場をかけての、ワールドカップ・アメリカ大会アジア地区最終予選の最終試合対イラク戦である。日本は、初戦のサウジアラビアに引き分け、第2戦のイランに痛い1敗。第3戦目から立ち直り、北朝鮮と韓国を見事に連破し、トップに踊り出た。最終戦に勝ちさえすれば、サウジアラビア、韓国を押さえて悲願のワールドカップ初出場というところまできた。遠くカタールのドーハで行われる試合を、サッカーファンのみならず、日本人の多くが大きな期待を持って見守った。

 試合は立ち上がりに日本がカズのシュートで先取点を奪う。後半に同点に追い付かれたものの、中山が勝ち越しのゴールで再び2-1とリードし、終盤を迎える。電光掲示板の時計は残り時間0をさしていた。残るはロスタイムのみ。日本人の誰もがタイムアップの笛を心待ちにしていた。イラクが最後の力を振り絞って攻めてくる。そしてコーナーキック。ショートコーナーからのセンタリングをイラク選手がヘディングシュート。無情にもボールはゴール左隅に吸い込まれてしまった。勝利の女神は微笑まなかった。この瞬間、ワールドカップ初出場の夢は消えてしまった。試合後のオフト監督の「負けた。これがサッカーだ。」というコメントがむなしく響いた。選手も、サポーターも筆舌につくし難いほどの悲しみに襲われたゲームであった。「ドーハの悲劇」といわれるゆえんである。思えば、日本のサッカーが強くなってきたのも、こうした厳しい経験を糧にしてきたからであると言えよう。ワールドカップ初出場の歓喜は4年後に実現した。それ以来、今年のロシア大会で6大会連続で出場を果たしている。。

 

 

10月29日(1960年) デットマール・クラーマー初来日

 「日本サッカーの父」と呼ばれるドイツ人のデットマール・クラーマー氏が、この日、初来日した。クラーマー氏を紹介している、『日本サッカー協会75年史』には、「もしこの人が日本に来てくれなかったら、またもしこの人が優秀なコーチであったとしても人間的な魅力のない人だったら、今日の日本サッカーは存在し得なかったろう。」と書かれている。

 クラーマー氏は日本代表チーム強化のコーチとしてばかりでなく、日本サッカー界全体のレベルアップのために尽力した人である。

クラーマー氏の功績により、その後の1964年東京オリンピックベスト8、1968年メキシコオリンピック銅メダル獲得という好成績が生まれた。

初来日の際は約50日間日本に滞在した。この間に日本サッカーの実情を見抜き、以下の3つの提言を行った。

 1,強力な日本代表チームを作ること。

 2,広い、基礎からトップに至るまでつながりのある組織を作ること。

 3,十分な数の有能なトレーナーを養成すること。

 これらの提言が現在のサッカー界隆盛の礎になったといってもよい。

 クラーマー氏は、その後も1961年5月から約1年間、次いで1963年10月から2ヶ月間、1964年4月から東京オリンピックが終わるまでの約6ヶ月間というように、長期にわたり、日本サッカー成長のために心血を注いだ。氏は、日本文化にも造詣が深く、戦後は日本人が遠慮して口にしない「大和魂」まで鞭撻したり、剣道の「残心」などの言葉を使ったりして、選手たちを驚かせた。クラーマー氏が残した言葉はたくさんあるが、現在の若い人にもためになるものがある。

「ボールコントロールは、次の部屋に入る鍵である。その鍵さえあればサッカーでは何でもできる」「試合終了のホイッスルは、次の試合開始の合図である」「サッカーは少年を大人にし、大人を紳士にする」「試合で勝った者には友人が集まってくる。新しい友人もできる。本当に友人が必要なのは、敗れたときであり敗れたほうである。私は敗れた者を訪れよう」等々。

 

10月30日(1960年) ディエゴ・マラドーナの生年月日

 アルゼンチンの生んだ至宝、天才マラドーナが生まれたのが、この日である。1978年、地元アルゼンチンで開かれたワールドカップに、当時17歳であったマラドーナがメンバー入りするかどうかで大きなニュースになった。結局メノッティ監督はマラドーナを選ばなかったが、当時から左利きの天才として名声は高かった。

 マラドーナが最も輝いたのは、1986年のメキシコワールドカップである。特に伝説となっているのが、対イングランド戦で見せた6人抜きのプレーである。後半9分、中盤でパスを受けたマラドーナは、60メートル近いドリブルで5人をかわし、最後はゴールキーパーまで抜いて得点した。地球の反対側の日本では真夜中のテレビ中継であったが、思わず声をあげてしまうほどの、まさしく神技であった。

 このマラドーナを初めて生で見たのは、1979年に日本で開かれた第2回ワールドユース大会のときでる。この大会は日本サッカー界にとって、東京オリンピックに次ぐ2回目の世界的イベントであり、その成功が、トヨタカップの日本開催につながる意義深い大会でもあった。

 その決勝戦は、9月7日国立競技場にて、マラドーナを擁するアルゼンチンとソ連との間で行われた。私も生で観戦できた。アルゼンチンには後にJリーグのFマリノスで活躍するディアスもいた。マラドーナの神業的なボール扱いとゲームメーク、スピード抜群のディアスのプレーは今でも脳裏に焼きついている。この2人の大活躍で、アルゼンチンが3-1で勝ち、優勝した。この試合はユースとはいえトップレベルの内容で、放映していたNHKのテレビカメラマンが「興奮して手が震えた」というほど、見ている者を感動させる素晴らしいものであった。

 

10月31日(2002年) 0対149 これがサッカーのスコア?

 日本と韓国共催で行われたワールドカップの年に、びっくりするような面白いニュースが飛び込んできた。毎日新聞のスポーツ欄に掲載された記事には驚かされた。この日、マダガスカル共和国で行われた国内最高峰のサッカーのリーグ戦で、149-0という試合があった。前年の優勝チームのコーチが審判の判定に逆上し、口論の後、選手がキックオフのたびにオウンゴールを繰り返し、この年の王者に輝いた相手は、これをぼうぜんと見守っていたという。サッカーでは考えられない大量得点。同国のラジオ局は「トップリーグの試合では世界新記録」と自慢げに報道したそうである。

 
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校長だより№24 国立競技場 2018年10月22日
 

校長だより№24 国立競技場

2018年10月20日 校長 森田 勉

 

 先週の土曜日、10月13日に東京都高等学校体育連盟の創立70周年記念式典が、新宿のハイアットリージェンシーで開催されました。その第二部で「東京2020オリンピック・パラリンピックに向けて」というテーマで、東京都オリンピック・パラリンピック準備局計画推進部参画推進担当課長の松縄 宏さんが講演されました。東京オリンピックまであと650日を切ったこと、東京大会に限定した5競技(野球・ソフトボール、空手、スケートボード、スポーツクライミング、サーフィン)を加えての33競技、その開催は43会場、そして大会終了後のレガシー(遺産・財産)など、興味あるお話が紹介されました。スポーツ好きの私にはとても楽しい内容でした。とくに個人的にも関心の高かった新国立競技場のことが記憶に残りました。

 新国立競技場(オリンピックスタジアム)は、1964年大会のレガシーを引き継ぐ「ヘリテッジゾーン」のシンボル的な会場として、開・閉会式、陸上競技やサッカーが行われる予定になっています。2019年11月に竣工し、こけら落としは、2020年1月1日のサッカー天皇杯(全日本選手権)決勝戦の予定だそうです。当初は収容人員6万8千人ほどですが、オリンピック大会後には8万人を収容できるスタジアムに改修されるとも聞きました。今からワクワクします。私には、前の国立競技場には何回も足を運び、サッカーやラグビーの試合を観戦したり、競技場内に設置されていた博物館や図書館にも通ったりして、たくさんの思い出があります。そして、新しく生まれ変わった国立競技場で早く熱い試合を見たいと願っています。

 ところで、国立競技場にまつわる話の中で、かつて学生時代に考えた仮説を紹介しましょう。それは、6万人近い大観衆が、試合終了後、出口までそれほどの大渋滞にはならず、(自分も含めて)人がはけていくことに関しての話です。競技場の大きさの割には、割合スムーズに人がいなくなっていきます。朝、自動車で都内に向かう時などの交通渋滞でなかなか動かない時とは様相が全く違います。この競技場から人がほとんど滞りなく出て行く様子を見ていて不思議に思ったことがあり、興味を持ったからです。近くには、JR千駄ヶ谷駅と信濃町駅、そして地下鉄銀座線の外苑前駅(その後大江戸線の国立競技場前駅もできました)がありますし、JR代々木駅や新宿駅までも歩けないことはない恵まれた立地条件にあります。そのことも大きな要因でしょう。しかし、もう一つ、国立競技場の場合、構造上、そこに渋滞があまり起こらない要因があると思われます。これを解説しておきましょう。

 話を易しくするためにモデルを(円を使って)単純化して考えましょう。左図の円は居住地区とオフィス街を区切る境です。人々は必ずこの円を通って自動車で会社に行くものとします。オフィス街で働く人口はR2(面積)に比例します。しかし通らなければならない円の長さはご存じのように2πRです。したがって、その円を通る人口は R2/R=Rに比例します。つまり、全部が通過する時間もRに比例するはずです。ですから、大きな都市ほど時間がかかるということになります。一方、国立競技場の観客の移動は様子が違います。競技場内にはトラックやフィールドがあり、観客の数はR2に比例していません。モデルとしては右図のように考えます。観客数は、πR2-π(R-d)2=2πRd-πd2=約2πRdに比例します。そして、出口の数は2πRに比例しますから、出て行く人の数はdに比例するはずです。dはRに比べると小さいので、観客が出終わるのに要する時間は競技場の大きさRにはあまり関係しないというわけです。はたして、この仮説は正しいでしょうか。

 

★サッカー この日に何が起こったか

10月20日(1964年) 日本、オリンピックで第7位?

 東京オリンピックで日本がベスト8になったことは結構知られている。しかし、それでは8チーム中何位であったのか。そのことを知る人は少ない。それもそのはずで、オリンピック競技としては、3位までのメダル争いをして終わりだからである。しかし、1964年の東京オリンピックでは、FIFA(国際サッカー連盟)公認の順位決定戦が行われている。この日、大阪長居競技場(東京でないところが面白い)で、ユーゴスラビアと5~6位決定予備戦が行われ、日本は1-6で敗れ、オリンピック入賞に至らず、結局7位となった。

 同じ日に東京では準決勝2試合が行われた。1つは、駒沢競技場での東ドイツ対チェコ戦。面白いのは、もう一つのハンガリー対アラブ連合戦が行われた会場である。何と、ワールドカップを開催した今では考えもつかないが、秩父宮競技場で行われている。ここはラグビー場である。当時のマイナーであったサッカー事情がこのあたりにもうかがわれる。ちなみに、決勝は国立競技場で23日に、ハンガリーとチェコとの間で行われ、2対1でハンガリーが制した。現在のオリンピックでのサッカー競技は、アンダー23(オーバーエイジ3人まで可)という形でプロの出場も許されている。しかし、東京オリンピックのころは純粋にアマチュアのみの出場しか許されていなかった。したがって、上位は1位ハンガリー、2位チェコ、3位東ドイツというように、東欧圏の国々によって占められていた。したがって、次のメキシコ大会で日本が、ハンガリー、ブルガリアに次いで3位になったことは、その意味でも特筆に値するのである。

 

10月21日(1917年) 最初は対抗戦が主流

 最近のサッカーの公式戦といえば、多数のチームが参加するトーナメント方式かリーグ戦方式で行われるのが普通である。しかし、日本サッカーの草創期においては、学校対学校の対校試合が主流であった。この日、奈良師範の主催で、「近畿蹴球大会」が同校校庭で開催された。他に参加したのは、明星商業、御影師範、京都師範。4校でトーナメントを行い、明星商業が優勝した。

 

10月22日(1968年) オリンピック準決勝日本対ハンガリー、0-5

 メキシコオリンピックの準決勝に進出したことで、サッカーファンはもとより、オリンピック好きの国民性からか、サッカーを良く知らない人たちの関心も高まってきたようだ。翌日の新聞の取りあげ方も変わってきている。

 あと二つ勝てば金メダル獲得というところまできていたが、相手は、当時アマチュアでは最強のハンガリーである。1950年代は“マジックマジャール”と呼ばれ、ヘルシンキオリンピックで優勝し、1954年のワールドカップの決勝で西ドイツに敗れるまで、実に国際試合32連勝を飾るといった輝かしい歴史もある。4年前の東京オリンピックでも優勝している強豪であり、生易しい相手でないことは、サッカーを少しでもかじったことのある人ならみんな知っていることであった。

 試合の翌日、10月22日付け朝日新聞のスポーツ欄には、この大会期間中では初めてといっていいほどサッカーが大きく取りあげられている。それが敗戦のニュースであったことは何とも皮肉なことであった。

 

10月23日(1940年) サッカーの王様ペレの誕生日

 この日、サッカーの王様、ペレがこの世に生を受けた。

 1969年11月の1000ゴール達成や1970年のメキシコワールドカップでの大活躍など、まさしくキングにふさわしいプレーの数々で世界中の人々を魅了した。

 1972年5月25日(金)、ペレがサントスFCの一員で来日し、日本代表と試合をした。

 私はこのとき高校2年生であった。放課後すぐに国立競技場に向かい千駄ヶ谷門の前に並んだ。あまりの人の多さに予定より開門時間が早まったほどである。実は正確にいうと、押し寄せた群集の力で千駄ヶ谷門の重い鉄門扉が壊されてしまったために、開門せざるを得なかったのである。このことだけでも、サッカーファンがいかに興奮状態にあったかを想像できるであろう。

 電光掲示板下の席に座り、ペレの様子を見守った。後半29分と31分にペレの連続ゴールが生まれた。圧巻だったのは、2点面のゴールである。ゴール正面でパスを受けたペレは、ボールを浮かしながら身体を反転させマークしていた山口をかわし、カバーした小城が蹴ろうとした寸前にボールをヘッドで押し出して、弾み際を左足でボレー気味にシュートした。ボールは弾丸のように飛びゴール左隅に突き刺さった。山口は「すっぽん」の異名をとるほどのしつこいディフェンダーであったし、小城は当時アジア最強のストッパーといわれていた。その2人を置き去りにした判断力、スピード、そしてテクニックはまさに神技であった。ジャンプして喜ぶペレの姿もすごかった。そのジャンプ力も尋常ではなかったからだ。それら全てがまぶたに焼き付いていて今でも忘れられない。今まで数々のスーパープレーヤーをこの目で見たが、ペレより抜きん出た選手はいないと思う。

 

10月24日(1968年) 日本、メキシコオリンピックで堂々3位

 予選リーグでナイジェリアを3-1で破り、ブラジルに1-1、スペインに0-0で引き分け決勝トーナメントに進出。準々決勝でフランスを3-1で撃破し、準決勝進出。ハンガリーに0-5で大敗したものの3位決定戦で地元メキシコとこの日に対戦。前半に杉山、釜本のコンビで2点を入れ、後半メキシコの猛反撃を防ぎ勝利。オリンピックで3位(銅メダル)という見事な成績を残した。

 この大会の日本の総得点は9点であったが、そのうち釜本が7得点をあげ、大会の得点王に輝いた。さらに日本チームは、FIFAのフェアー・プレー・トロフィーを受け、1968年度ピエール・ド・クーベルタン伯フェアー・プレー・トロフィーをもユネスコから与えられた。

 試合を終えて宿舎に帰ってきた選手たちは、山口、釜本といった若手ですら、ベッドに横になったきり、しばらく動くことができなかったそうである。その選手たちの様子を見たクラーマー氏(後述)が、「アマチュアのようなプロが多い中で、プロのようなアマチュアを見た」といったそうである。私は、この言葉が大好きである。

 

10月25日(1924年) 明治神宮競技場竣工

 明治神宮競技場は、旧国立競技場の前身である。学徒出陣式の映像で見たことがある人がいると思う。戦前のサッカーの大きなゲームは、必ずこの競技場で行われたそうである。1924年以降の日本サッカーの歩みはこの競技場とともにあった。当時の日本体育協会の会長であった嘉納治五郎から、奉賛会長・阪谷芳郎へ申し入れた議が入れられて競技場建設が決まった。1911年11月成案、12月着工、1922年11月定礎、そしてこの日に竣工となった。

 
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校長だより№23 読書のすすめ 2018年10月12日
 

 

2018年10月12日 校長 森田 勉

 

「読書の秋」です。今年の読書週間は、10月27日(土)から11月9日(金)の2週間です。“週間”といいながら2週間あるのは、そのぐらいの期間があれば、文庫本の一冊ぐらいは読むことができるであろうということで定められていると聞いています。生徒たちにもぜひ本をたくさん読んでほしいものです。今日は、私なりの読書観を述べたいと思います。

 まず、第一に、読了したときの小さな達成感が好きです。その小さな達成感は、大きな意欲につながります。この感覚を多くの人たちにも分けてあげたい気持ちになります。

 次に感じることは、読書は時には師であり、時には心の友であり、時には最愛の人にもなるということです。自分の心の目を開かせてくれたり、普段考えていることを普遍化してくれたり、落ち込んでいるときに励ましてくれたり、勇気をくれたりするからです。

 また、日頃から心がけていることを披露しておきましょう。それは、感動したことや、「なるほど」と思ったことなどをメモリーに保存しておくことです。高校生のころに味わった感覚はなかなか忘れませんが、最近は脳細胞が許してくれません(笑)。時々それを引き出して、確認する必要があります。

 一つ例を挙げておきます。「子供に伝えたい<三つの力>」斎藤孝著(NHKブックス)を読んで、私が残したメモがありました。そのうち4つほど紹介します。

○ 読書は自分の生活を豊かにしてくれるだけでなく、自分の存在も確かにしてくれる。本を読むことによって、世界は格段に広がる。

○ 本を読むことは、スポーツ選手がトレーニングしたり、稽古したりするように、人が知的活動を進めていく上でどうしても欠かせないことである。

〇 読書を通して深く長く思考する訓練ができる。

〇 多様な文化を受け入れてコミュニケーションをはかっていく上で、読書が大きな助けになる。

 まさしく「我が意を得たり」というところです。そういえば、この「我が意を得たり」という言葉も、学生時代に読んだ尾崎士郎の「人生劇場」の主人公、青成瓢吉が使っていた言葉であり、それ以来時々使うようになりました。

 

★サッカー この日に何が起こったか

10月12日(1969年) 1970年メキシコワールドカップ予選での日韓戦

 今でこそ、ワールドカップ本大会に今年のロシア大会を含めて6大会連続で出場を果たしている日本であるが、それ以前は、ワールドカップは夢のまた夢という時代が長く続いていた。しかし、その当時唯一、1969年にソウルで行われたメキシコワールドカップ予選だけは、大きな期待が持たれた。それというのも、前年のメキシコオリンピックで日本は銅メダルを獲得していたからである。その余勢を駆って、ワールドカップにも出場できるのではないか、という淡い期待を抱いたのである。

 予選は、日本、韓国、オーストラリアの3カ国による総あたり2回戦(当時のレギュレーションは、勝ち…勝ち点2、引き分け…勝ち点1、負け…勝ち点0)で行われ、1位となったチームに出場権が与えられるというものであった。日本は、オーストラリア、韓国、オーストラリア、韓国という順番で戦った。

日本の誤算は、エース釜本が、大会前に肝炎を患い出場できず、戦力ダウンを余儀なくされたことであった。10日に行われたオーストラリアとの第1戦を1-3で落とした日本は、この日、韓国との1回目の試合に臨んだ。日本はこの試合を落とすと、残り2試合を残すものの、出場権獲得は絶望的になる。一方の韓国は、この日が初戦で、試合前に「釜本のいない日本は怖くない」と豪語していた。

試合は、日韓戦らしく大接戦となり、双方2点ずつを取り、引き分けに終わった。このゲームの後半は日本が攻勢であったにもかかわらず、やはり懸念されていた釜本の不在が痛く、決定力を欠いたことは明らかであり、今後の戦い方に不安を残したのも事実であった。

結局、16日のオーストラリアに1-1で引き分け、18日の韓国に0-2で敗れ、出場権獲得はならなかった。最終的にオーストラリアが2勝2引き分けで1位となり予選を通過した。

大会の中身とは関係ないが、当時の新聞記事はワールドカップという表現を使わず世界選手権と報道している点、また、テレビ放映もない点を考えると、この頃は、日本人の関心がワールドカップよりもオリンピックに向いていたことが容易に推測できる。

 

10月13日(1968年) レッドカード第1号

 バレーボールやハンドボールなどでも使われるようになり、今ではすっかり一般用語にもなった「イエローカード」。もちろん、サッカーの「警告」のときに使われたのが始まりである。以前は、主審は警告であることをプレーヤーに告げ、自分の審判手帳に警告を与えた選手の背番号と理由を記入するだけだった。英語ではBOOKING (手帳に書く)という言葉が、ルール上の正式用語CAUTION (警告)と同じ意味で使われている。しかし、これでは観客などに警告があったのかなかったのか不明確だったため、外からでもよく分かるようにイエローカード(警告)、レッドカード(退場処分)で示すようにした。国際サッカー連盟は1968年のメキシコオリンピックで初めてこの方式を採用、以後ずっと続けている。

 メキシコオリンピック予選リーグC組、イスラエル対ガーナの試合がこの日行われた。ゲームは最初から荒っぽく、非紳士的だった。キックオフ15分後に注意を受けたガーナ選手が、フランス人のキタブジアン主審を蹴とばして、レッドカードで退場処分。記念すべき? レッドカード第1号となった。

 この試合、終了8分前に両軍選手が取っ組みあいを始め、警官50人が出動し、キタブジアン主審はたまらず試合をストップ。この時点での得点を採用し、5-3でイスラエルの勝ちを宣言して終わった。

 

10月14日(1964年) 東京オリンピックで、日本、アルゼンチンに勝つ!

 アジアで初めて開かれたオリンピックが、この東京オリンピックである。4日前の開会式はテレビの実況で見てよく覚えている。当時小学校3年生であった私は、サッカーのサの字も知らなかった。しかし、それは、私が小さかったからということだけではなく、多くの日本人も、オリンピックといえば、陸上と水泳がメインなのだろうと思えるほどに、テレビ放映にも偏りがあったことが大きい要因であろう。女子も含めて、日本サッカーチームが出場する全試合を、生中継している現在では想像もできないことである。

 東京オリンピックのサッカー競技では、14カ国が出場している。日本は、強豪アルゼンチン、そしてガーナとともに予選リーグD組に入った。そして、この日が対アルゼンチン戦であった。試合は駒沢競技場で行われた。

 日本は先取点を許しながらも、後半3点を入れ、結局3-2で勝利した。日本の2点目を入れたのは、Jリーグ初代チェアマンの川淵三郎である。釜本の左からのセンタリングをダイビングヘッドで得点した。しかし、ビデオで見ると、失礼ながら“おじぎヘッド”といった形容の方がいい感じである。川淵氏の後日談によると、前半から調子が悪く、現在であれば当然交代させられていた状態(当時は交代できなかった)であったそうだから、そのようなときでも得点を奪える選手であったことは間違いない。しかも、相手は強豪のアルゼンチンである。いくらアマチュアチームであっても、サッカー先進国であり、南米予選を勝ち抜いてきたチームである。そのチームに対しての得点は高く評価されていい。

 この勝利で、日本は、次のガーナ戦を待たずしてベスト8入りし、準々決勝進出を決めた。今ならば、新聞の1面を飾ってもおかしくない出来事であったが、翌日の朝日新聞では、スポーツ欄の陸上競技に関する記事の横に小さく取りあげられているに過ぎない。サッカーがまだまだマイナースポーツであったことの証である。 

 

10月15日(1972年) 釜本5度目のハットトリック達成

 この日は、高校2年生であった私が、ガールフレンドと初めてサッカーの試合を国立競技場に見に行った日である。日本リーグの古河電工対ヤンマーディーゼルの試合である。デートに慣れていないせいか、待ちあわせにてこずり(スマホ時代の今では考えられない。笑)、競技場に着いたときは、すでに前半15分を過ぎていた。電光掲示板には2-0でヤンマーがリードしていることが記されていた。

 この試合でヤンマーの釜本がハットトリックを達成し、6-0でヤンマーが快勝している。3点目は前半20分、湯口からのセンタリングを釜本が得意の胸トラップからシュートを決めたものである。この1972年は、1969年に肝炎を患った釜本が全盛期の輝きを取り戻し、大車輪の活躍をしたシーズンでもあった。

 釜本は、このハットトリックで、この年5度目のハットトリックを達成した。7月に行われたムルデカ大会(マレーシア)で3回、8月の日本リーグ東西対抗戦で1回、そしてこの日で5度目であった。わずか3ヶ月で5回のハットトリックという名ストライカー振りである。1967年4月9日に日本リーグでの初得点を記録した釜本は、1982年5月15日に最後の得点を決め、通算202得点の金字塔を築いた。

 実は、この日最初に見逃した2点も、その釜本が決めたゴールであった。その日のチケットの半券には、「その2点が見られずにとても残念」と書き残されている。

 

10月16日(1968年) 日本、ブラジルと引き分ける

 イングランドが「サッカーの母国」なら、ブラジルは「サッカーの王国」である。1968年当時は、アマチュアしかオリンピックに参加できなかったとはいえ、サッカー競技にかけるブラジルの意気込みは日本の比ではない。この日、メキシコオリンピックの予選リーグ第2戦目がブラジルとの間で行われた。日本は、第1戦でナイジェリアと対戦し、すでに3-1と勝利をおさめていた。一方のブラジルはスペインに1敗を喫しており、日本戦に勝利すべく激しい闘志であたってきた。

 日本は1点の先行を許したものの、後半38分に3人に囲まれた釜本がゴール中央に走りこんだフリーの渡辺に好アシスト。渡辺がスライディング気味にプッシュして同点に追いついた。結局試合は1-1で終了した。第3戦のスペインに引き分けても決勝トーナメント進出というところまで到達した。

 ところで、過去、オリンピックでのブラジルとの試合は、この試合を含めて3試合ある。1996年のアトランタオリンピックでは1-0と勝利し「マイアミの奇跡」とまでいわれた。また、2000年のシドニーオリンピックでは、逆に0-1と惜敗したが、試合内容は4年前より良かった。(面白いことに、ブラジルに勝った1996年のときは予選リーグで敗退し、反対に負けた2000年のときは決勝トーナメントに進出している。予選リーグの妙である。)

 したがって、オリンピックでの日本の対ブラジル戦成績は、1勝1敗1引き分けとなっている。

 

10月17日(1907年) 運動会でサッカー?

この日、日比谷公園で慈恵医学専門学校の陸上運動会があり、往診レース、調薬レース、顕微鏡レースなどという、いかにも医学校らしい運動種目の間で、サッカーの紅白試合が行われた。その試合は、1,2,3年生の混合で、11人制の50分ゲームとして行われた。運動会でサッカーのゲームというのは、あまりなじまない。しかし、1902年10月には、東京高等師範学校の大運動会でもサッカーのモデルゲームが行われたということである。当時の東京師範学校の運動会は、内容、運営ともに模範的なもので、他校から勉強のために多くの人が集まった。その影響が多分にあったと想像される。

 

10月18日(1968年) スペインに引き分けねらい?

 今年のワールドカップにおいて、日本チームは予選リーグ最終戦で記憶に残る不思議な?試合をした。それは、ポーランドに1点をリードされながらも、試合終盤にそのまま0-1でよしとする戦い方をしたからである。同時刻に他会場で行われていた、セネガル対コロンビア戦で、コロンビアが1-0で試合をリードして終わると踏んだ日本代表の西野監督は、このまま試合を終わらせれば予選リーグを突破できると考えたからだ。事実、結果はその通りとなった。ここまで極端な話ではないが、過去にも似たような試合があった。それがこの日の試合である。

メキシコオリンピックでの予選リーグ最終戦は、この日、アステカ・スタジアムで強豪スペインとの間で行われた。スペインはすでに2勝している。日本が勝てばグループ1位、引き分ければ2位で、いずれの場合も決勝トーナメント進出が決まる。しかし、もし負けると、同じ時間に別会場で行われている同グループのブラジルがナイジェリアに勝てば、得失点差で予選リーグ敗退ということもあり得る状況であった。

 実は、この試合、途中から日本は引き分けねらいに出た。というのは日本がスペインに勝ってBグループで1位になると、プエブラ市で地元メキシコと準々決勝を戦わねばならない。2位であれば同じアステカでフランスと戦うことができる。メキシコでもっとも盛んなスポーツであるサッカーに対する応援は常軌を逸しており、チーム力その他全てを計算した上で、長沼監督は準々決勝の相手としてフランスを選んだ。後半20分、宮本(輝)選手を休ませ、代りに湯口選手を入れ、チーム全員に「点を入れるな、点を入れられるな」と指示を出した。結果は0-0のまま引き分けに終わった。しかし、当時は、「引き分けねらい」という文化がなく、試合に出ていた選手も、その指示を理解せずに、シュートを打って、ポストやバーに当てていた記憶がある。首脳陣は冷や汗ものだったと聞いている。今夏のワールドカップで、チーム一丸となって0-1の試合を全うしたのとはずいぶんと違い、隔世の感がある。

 

10月19日(1930年) 大学サッカー真っ盛り

戦前の日本サッカーは大学生が中心となって支えていた。この日行われたのが、東京カレッヂ蹴球リーグ第1部の試合。対戦は、早稲田対文理大(後の東京教育大学、現在の筑波大学)で、3-1で早稲田が勝利した。

 この年は、結局東京大学(以下、東大)が優勝した。東大もかつてはいろいろなスポーツで、強豪としてその名を馳せていた。しかし現在では、メジャーなスポーツでは野球が、東京六大学野球の中で、かろうじて新聞に報じられることはあるが、サッカーに関しては全くといっていいほど、その名前を見ることはなくなってしまった。1948年に関東リーグで優勝したのを最後に、1957年からは1部リーグから姿を消したままになっている。寂しい限りである。2018年現在で、東大は東京都2部リーグに所属している。

 
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校長だより№22 ちょっといい話 2018年10月09日
 

 

2018年10月9日 校長 森田 勉

 

前号では、苦情に関してのお話を載せましたが、もちろん、気分がよくなる話もあります。これまでに、私のところに届いた「ちょっといい話」の一部をご披露しておきます。

 

〇 立川通りの学校前の横断歩道で、野球部の生徒ふたりが、自転車同士の接触で倒れた人たちを助けるために、いち早く駆けつけて世話を焼いてくれました。

〇 近隣にお住まいの50歳くらいの男性が、自転車で立川通りを走行していたところ、本校前の停留所付近で気付かないうちにパズルのピースを落としてしまったそうです。男女合わせて7から8名の生徒がそのピースを探してくれたり拾ってくれたりしたということです。

〇 小さな子どもが習い事に行こうとバスに乗っていて急に気分が悪くなり、降りるはずのバス停でも降りられずにいたところ、その様子に気づいた本校生が世話をしながら習い事の場所まで付き添って、ちょうど合流したその子のお母さんにお子さんを引き渡したということでした。

〇 交差点内にて、一般男性の自転車が転倒し、荷物が道路に散乱したとき、徒歩横断中の男子生徒3~4名が駆け寄り、散乱した書類を素早く回収して、そして、その男性に手渡し、何事もなかったように歩き出して立ち去ったということです。

〇 野球部生徒が、立川駅の北口から改札に向かうルミネに挟まれた通路で、ゴミを黙々と拾う野球部の生徒の姿を頻繁に見かけています。まねができることではないな、ととても感心しています。

〇 立川女子高校近くの小さな交差点での自転車同士の衝突事故が起き、居合わせたライフセービング部の3人が、転倒していたご婦人が額から出血していた為、持ち合わせたティッシュにて直接圧迫止血の応急手当をし、パニック状態であった為、落ち着かせると共に、救急車での搬送が必要と判断し、要請の連絡をして救急隊員に引き継いだそうです。

〇 モノレール立川北駅付近のペデストリアン・デッキで、買い物をした大きな荷物2つを運ぶのに困っていた男性が、たまたま通りかかった本校の男子生徒二人に声をかけたそうです。二人は快く手伝いを引き受け、パークアベニュー駐車場まで荷物を運んだとのこと。とても助かった、爽やかな二人に感謝の気持ちを伝えたい、とおっしゃっていました。

〇 朝、女性が携帯電話を落とし気づかずにいたら、本校生が携帯を拾って追いかけて来て渡してくれたとのお礼の電話がありました。

 

 こうした声がどんどん届くと、私たちも元気が出ます。うちの生徒もなかなかやるものです。

 

★サッカー この日に何が起こったか

10月8日(1997年) ジェフ解散ピンチ?

この日のスポーツ新聞の1面に「ジェフ解散ピンチ 撤退へ」という衝撃的な見出しが走った。代表チームが1998年フランスワールドカップ予選を戦っている最中に、水をさすような事態である。サッカーJリーグのジェフ市原を古河電工と共同運営するJR東日本の松田昌士(まさたけ)社長(当時61才)が、10月7日の記者会見でJリーグからの撤退を示唆したというのだ。

1993年に開幕したJリーグは、人気も高く、滑り出しは好調であった。しかし、この1997年当時には、観客数が減少したことにより、エスパルス、フリューゲルス(その後マリノスに吸収される)、ヴェルディなどのチームが運営に支障をきたしてきていた。ジェフ側は、Jリーグ発足当時から、Jリーグ側の「企業名を表に出さない」という理念への不満があり、代表チームの不調なども手伝って、このような発言につながったようである。

しかし、Jリーグ市原はこの日(10月8日)、松田社長がJリーグ批判したことについて、Jリーグ側に事情説明を行ない、『クラブとしては、社長の発言は激励として受け止めている』などと説明して、一応沈静化した形となった。

 Jリーグは発足して今年で25年、すなわち四半世紀が過ぎたことになる。黎明期にはいろいろなことが起きていた。そうした苦労を積み重ねて現在の隆盛があることを忘れてはならないだろう。

 

10月9日(1999年) 中田が加わり、敵地でカザフ破る

 2000年シドニーオリンピック・アジア最終予選は、C組の日本、タイ、カザフスタンの3カ国が、ホーム・アンド・アウェイ方式で戦い、1位のチームがオリンピック出場権を獲得するという方式であった。日本は、前回のアトランタオリンピックに続き2大会連続出場をねらっていた。この日は、初戦、アウェイでのカザフスタン戦である。2年前のワールドカップ予選で監督が更迭された、縁起の悪い場所であったが、選手たちは気にもせず、自信に満ちあふれていた。

 このチームは、ワールドユース準優勝経験者が10人もいる上に、イタリアのセリアA(当時はペルージャ)で活躍する中田英寿も加わり、史上最強チームといわれていた。

 日本選手たちは、しっかりとした技術の高さを十分に見せつけ、荒れた芝生もものともせず、戦い抜いた。前半25分、中田がミドルシュートを決めて先制。後半は相手の攻勢を受けたが、それに耐えた後、後半42分に中田の蹴ったコーナーキックを稲本がゴールに突き刺し、勝負を決めた。結局2-0で勝利をものにした。この試合で好発進した日本は、最終的に全勝で出場権を獲得した。4年前のアトランタオリンピックでは、やっとの思いで28年ぶりの出場権を獲得したものである。その光景が嘘のような日本サッカーの躍進振りであった。

 ところで、この日は土曜日で、午後から私は高校サッカー部の練習試合(対実践学園)で高尾まで出かけていた。練習試合を終えて、自動車を走らせ家路に急いだが、夕方5時55分からのテレビ中継には間にあわなかった。カー・ラジオで放送された「中田ゴール」の実況を聞きながら気持ちよく運転したことを覚えている。

 

10月10日(1967年) 杉山の決勝点でメキシコ行きを決める 

東京オリンピックが開幕した日から、ちょうど3年が経過した。この日、同じ国立競技場では、1968年メキシコオリンピック・アジア地区第1組予選の最終日、日本と南ベトナムの試合が行われた。午後7時30分、3万5千人の観衆が見守る中、いよいよキックオフされた。

得失点差で韓国を大きく上まわる日本は、この試合に勝てばオリンピック出場権を獲得できる。日本は初戦のフィリピンに15-0で圧勝。日本と1位の座を争っていた韓国は、10月9日の最終戦がそのフィリピン戦だった。「18-0で勝つ」と韓国関係者は豪語していた。しかし、それを耳にしたフィリピン選手は怒り、何と90分間、11人がペナルティエリアに入って守るという徹底振り、さすがの韓国も5得点しかできなかった。これが効いて、日本は1-0でも勝てばいいという状況になった。断然有利である。

しかし、試合は、思うように運ばない。日本選手にプレッシャーが重くのしかかっていたようだ。南ベトナムの方が積極的で、攻守両面で上まわり、日本は前半無得点に終わる。焦りが出始めた後半4分、左肩を脱臼していた杉山が相手ディフェンダーやゴールキーパーともつれあいながらも、執念のゴールを奪う。これが結局決勝点となった。杉山は、東京オリンピックでも出場し、168cmと小柄ながら、スピードとテクニックに優れ、当時は「黄金の足」を持つ選手と称された。

こうして日本は薄氷を踏む思いでメキシコオリンピックの出場を決めたのである。ベルリン、メルボルン、東京に続き、4度目の出場となった。

実は、この試合を私はテレビでさえ見ることができなかった。そのことでも思い出深い試合である。当時小学校6年生の私は、小学校3年生から始めたそろばん塾に通っていた。この日も塾に行かなくてはならなかった。どうしてもテレビ観戦をしたくて、泣き泣き(本当に涙を流して)親に訴えたが、だめだった。塾といっても、民家の1部屋で近所のお兄さんが教えている程度のものである。ふすまを隔てた部屋では、何と、そのオリンピック予選のテレビ中継を家族の人が見ているのだ。こちらの気も知らず、大声で歓声をあげていたことが妙に記憶に残っている。そろばん塾は1ヶ月後にやめた。

 

10月11日(1937年) ボビー・チャールトンの誕生日

横浜で行われた2002年ワールドカップ開幕前夜祭で、プラティニやジーコと一緒にセレモニーに登場していた頭の薄いおじいさんがボビー・チャールトンである。しかし、この人は、イングランドでは知らない人がいないというほどの素晴らしい選手であった。そして、この日がそのボビー・チャールトンの誕生日である。

1962年、1966年、1970年のワールドカップに出場しているが、中でも地元で開催された1966年のワールドカップでは、ゲームメーカーとして大活躍し優勝の原動力となった。このときの活躍で、「ナイト」の称号が与えられた。また、1968年には、ヨーロッパ選手権の決勝でポルトガルを破り、イングランドの初優勝に貢献した。これらの功績が讃えられ、1974年にはエリザベス女王から大英帝国勲章が授与された。サッカー界のミスター・イングランドといっていい。

マンチェスター・ユナイテッドといえば、オールドファンには、薄くなったブロンドをなびかせて、華麗にピッチを駆けぬけるボビー・チャールトンの姿を懐かしく思い浮かべる人が多いであろう。

 
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校長だより№21 苦情対応 2018年10月05日
 

 

 

2018年10月5日 校長 森田 勉

 

 本校は、生徒が1,500名以上のいわゆる“マンモス校”と呼ばれる学校の一つです。入試説明会や進学相談会などで、「人数が多い学校だが、きめ細やかな指導の点は大丈夫ですか」と聞かれることがたまにあります。感覚としてそうした疑問が出ることは理解できますが、その点は「大丈夫です」と自信を持ってお答えしています。クラス定員はきちんと守られていますし、そこには担任、副担も付いています。また、進路相談室、キャリア相談室、カウンセリングルーム(ほっとルームと呼んでいます)などが整備されています。そして何よりも、伝統的に「一人ひとりを大切にする教育」を展開している自負があります。

 しかし、だから指導は完璧で、行き届いている、と豪語するつまりは全くありません。今朝も、学校に来たら「苦情」をいただきました。生徒の交差点での通行マナーが悪いこと、そして、それを注意したあとの素直でない態度に関しての内容でした。早速、対応しています。まだまだ、行き届かないことが多く、残念ですし、皆様に対して申し訳なく思います。

多くいただく苦情の中身は、交通マナー(とくに自転車通学に関して)、電車やバス内でのマナー、そして、コンビニやファミレスでの我が物顔的な振る舞いなどです。最近は、「こうしたことがありましたので指導の方をよろしくお願いします」「学校全体でこうしたことに関して共有してください」といった、本人や生徒たちの将来や本校の継続発展のことを思っての、そうしたお気持ちがうかがえる苦情(助言と言うべきでしょうか)が多く、有り難く思っています。

 少し前までは、「どんな指導をしているんだ」「こういう生徒がいる学校は薦めません」といった厳しい苦情が多かったように感じます。もちろん、交通ルール、マナーやモラルといった面でも常に持続的に機会を逃さず、個々に、あるいは全体にきちんと指導を行っています。そして、そうした残念な苦情に対しても、一つひとつ丁寧に対応し、その都度該当すると思われる生徒を呼び出して指導・注意をしています(自ら名乗り出てくる生徒がほとんどです)。

今後とも、皆様には「マンモス校=なんとなく“雑な”イメージ」を持たれないようにしていただくために、生徒、保護者、そして教職員が三位一体となって努力していきますので、また何かお気づきの点がありましたらご指摘いただければ幸いです。

 

★サッカー この日に何が起こったか

10月7日(1967年) 史上空前の日韓名勝負

 2002年、韓国と共催でワールドカップが開かれた。文字通りよきパートナーである韓国は、日本が世界大会に出るための登竜門でもある。サッカーを国技といってはばからない韓国は、何度となく日本の夢を打ち砕いている。20世紀の終わりになって、ライバルと呼ぶにふさわしい結果を残しているが、それまでは、韓国の後塵を拝することが常であった。しかし、試合内容は、民族意識も手伝ってか、白熱した好試合が多い。とりわけ、1968年メキシコオリンピックの予選で戦われたこの試合は、今でも旧友と語り草になるほどの好試合であった。このときの日本チームは、東京オリンピック時からほとんど同じメンバーで強化され、実力は韓国と互角以上と評判の高いチームであった。

 この予選は、アジア第1組の日本、韓国、台湾、フィリピン、レバノン、南ベトナムの6カ国による総あたり1回戦で行われた。今では、ホーム・アンド・アウェイが主流だが、当時は、セントラル方式(1国集中開催方式)が普通で、このときは、日本の国立競技場で行われた。

 9月27日から始まった戦いは、日韓両国ともにこの日まで3戦全勝、双方とも1試合を残しているが、事実上の決勝戦であり、勝った方が出場権獲得をほぼ決める否が応でも盛り上がる試合である。

 雨に煙る国立競技場は超満員。小学校6年生であった私は、テレビ画面にかじりついていた。日の丸の大声援を背に、日本は好スタートを切った。前半13分に宮本輝紀、37分に杉山がゴールをあげ、2-0でリードしてハーフタイムを迎えた。

 サッカーの試合を体験したことがある人は分かると思うが、互角の力を持つチーム同士の試合では、2-0というスコアは、微妙なスコアである。リードしている側からすれば、追加点を取れば勝負はほぼ決まる。逆に相手に1点を取られると、追いつかれるのではないかと浮き足立つ。

日本の追加点を信じて後半を迎えた。しかし、期待に反して、後半開始から猛反撃をしてきた韓国に圧倒される。ロングボールを放り込み、持ち前の体力を存分に生かして走り、動き回って日本守備陣を翻弄し始めた。雨の日の戦い方としては利にかなっている。後半6分、14分と立て続けにゴールを奪われる。試合の行く末は分からなくなった。 

 しかし、1分後に、エース釜本が得意の右足で勝ち越し点を決める。釜本は、この予選ですでに10得点をマークし、押しも押されもせぬストライカーである。釜本クラスの点取り屋が、今の日本にいれば、さぞかし強力な代表チームが出来上がるであろう。残念ながら、この選手を乗り越えるほどのゴールゲッターはまだ生まれてこない。(私たちの世代は、釜本にあこがれてサッカーを始めた人が多い)

 さて、話を元に戻すと、韓国も負けていない。日本の再リードもつかの間、2分後に、また同点にされる。このまま激しい攻防を繰り返し、後半も残り時間がわずかとなった。44分に韓国選手の放ったミドルシュートが日本ゴールを襲った。ゴールキーパーの横山が渾身の力で飛ぶが、その手が及ばず、誰しもが韓国の逆転かと思った。その瞬間、ボールは激しい音ともにバーに跳ね返された。日本は九死に一生を得た。そして、同点のまま試合終了。

 両チームともに同勝ち点となった。しかし、日本は初戦のフィリピン戦に15-0で勝っており、得失点差で優位に立った。最終戦の南ベトナム戦に勝てば出場権獲得という断然有利な状況になった。

結果的には南ベトナムに勝ち(後述)、出場権を獲得した。もし、あのバーにあたった韓国のシュートが入っていたら、その後のメキシコ本大会での日本の活躍(銅メダル獲得)もなかったわけである。これも、このゲームが語り草になっている大きな要因の一つである。  

 

 

 
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校長だより№20 生徒会役員選挙 2018年10月04日
 

2018年10月4日 校長 森田 勉

 

 10月3日に本校の生徒会役員選挙が行われました。まず候補者たちの立ち会い演説があり、その後投票が行われて新役員が決まりました。新しい生徒会役員たちには、生徒の代表として、本校の顔として頑張ってほしいと思います。

 生徒会役員の重要な役目に、「要求実現」というテーマがあると私は考えています。生徒会員、すなわち一般の生徒たちが、日常的に学校生活を送っていく上で、より健全で自分たちがより向上できるために必要な改善要求を、生徒会役員が中心となってそれを集約して実現させていくという任務です。今回の演説の中でも、「校則の緩和」を公約に掲げている生徒が多くいました。この「緩和」という言葉は、私が思うに、現代にマッチした形での校則の改善というような意味で使ったのではないかと推察しています。

 そのことが、どのように生徒一人ひとりの、そして集団として、成長や向上につながるのか、という点を明確にして、必要であれば調査・研究をして、理論的根拠をはっきりさせて、一つの要求という形にまとめていくことが求められます。それを各クラスの討議にかけて、賛否両論ある多数の意見に折り合いをつけて、全体の“うねり”にすることも大事だと思います。

 本校では、毎年春に「リーダー研修会」という、生徒会役員ならびに各種委員会生徒と、校長をはじめとした何人かの管理職との話し合いが持たれます。そして、様々な学校生活上の課題について検討し、改善につなげています。今回当選した新役員の生徒たちが、さらなる生徒や本校の進化・飛躍を実現すべく、きちんとした形で「要求」をぶつけてきてくれることを期待しています。

 

★サッカー この日に何が起こったか

10月3日(1977年) 日本人プロ第1号誕生

現在では、多くの選手がヨーロッパで活躍している。しかし、40年も前にその先陣を切った選手が、奥寺康彦である。

この日、奥寺選手がドイツの1.FCケルンに入団することが発表となった。当時、二宮監督率いる日本代表チームの一員としてヨーロッパ遠征をした際、二宮監督と親交の厚いドイツ(当時は西ドイツ)の1.FCケルンのバイスバイラー監督に認められ入団の運びとなった。それまでも、メキシコオリンピックで活躍した杉山や釜本がプロから誘いを受けたことはあったが、プロ選手誕生までには至らなかった。Jリーグのある現在では考えもつかないかもしれないが、当時としてはセンセーショナルな出来事であった。

奥寺選手は、ケルンで3年間プレーし、ブンデスリーガ、ドイツカップの2冠獲得に貢献した。その後、ヘルタ・ベルリンを経て、81年にベルダー・ブレーメンに移籍し3度の準優勝に輝いた。9年間、ドイツのトッププロとして、通算235試合に出場し25得点をマークする大活躍をした。1986年に帰国し、古河電工(当時の日本リーグ1部チーム、現J2ジェフ市原)とプロ契約を結び、日本代表としてソウルオリンピック予選などに出場した。1988年に現役を引退し、現在はJ2の横浜FCの会長兼スポーツダイレクターを務めている。

実は私、1990年に奥寺氏が練馬区でサッカー教室を開いたおり、練馬区立石神井中学校のグランドで、紅白試合で対戦したことがある。鋭いドリブルから、左サイドを突破され、そのままゴールを奪われたことを記憶している。

 

10月4日(1903年) 日本初のサッカーの指導書発刊

東京教育大学(現在の筑波大学)の前身である、東京高等師範学校のフットボール部が編集した、日本最初の本格的指導書である『アソシエーション・フットボール』が、この日、鐘美堂より発行された。ちなみにボリュームは127ページからなり、価格は40銭であったそうである。

 

10月5日(1960年) カレッカの誕生日

 Jリーグの柏レイソルでも活躍したので知っている人もいるかもしれない。ブラジル代表として、1986年、1990年のワールドカップにフォワードとして連続出場した。

 日本でのデビュー戦は、1993年Jリーグ・ナビスコカップ予選リーグ第1節(9月11日)の柏レイソル対ガンバ大阪戦。カレッカは鋭い突破を見せ、シュートも放ったが実らず、ガンバ大阪に0-1で敗れ、デビューを飾れなかった。

 

10月6日(1993年) サッカーマガジンが週刊誌となる

 日本で一番古くから発刊されているサッカー雑誌『サッカーマガジン』が、本格的なサッカーブームの到来で、ついに週刊誌となり、この日から380 円で発売された。表紙には「週間化記念特別増大号」と明記してあり、ワールドカップ(1994年アメリカ大会)アジア最終予選を目前に控えた、当時の代表チームの攻守の要であった、カズと井原(ともに当時26歳)がツーショットで載っている。直前に行われた、日本代表スペイン合宿やナビスコカップの様子が豊富なグラビアとともに詳細に報じられている。 

 
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校長だより№19 スポーツの秋 2018年10月02日
 

校長だより№19 スポーツの秋

2018年10月2日 校長 森田 勉

 

 9月30日(日)に立川のグランドホテルにて、昭和第一同総会設立70周年記念式典と祝賀会が行われました。台風24号の影響で、首都圏のJRが午後8時をもって計画運休するという生憎の天候でしたが、200名以上のご出席があり、とても盛況でした。同窓生の母校に対する温かいご支援のお気持ちが感じられる素晴らしいイベントでした。その場の挨拶でもお話しさていただきましたが、伝統とは創造と継承とが織りなす形で成り立つものと思います。これまで本校創立当初から、時代時代の諸先輩方の創意・工夫・ご努力により脈々と引き継がれてきました「一人ひとりを大切にする学校」という良さを継承し、そして新たな創造を実践して、未来進化型の学校となるべく邁進したいと考えています。

 

 ところで、秋は台風のシーズンでもありますが、「スポーツの秋」でもあります。私もスポーツが大好きです。とくにサッカーは子どもの頃から続けてきましたので目がありません。最近では自分でプレイする機会はめっぽう減り、もっぱら見る方に回っています。本校のサッカー部の試合をはじめ生の観戦は本当に大好きです。

 そこで今月と来月の秋の二ヶ月間は、「サッカー この日に何が起こったか」と題して、掲載したいと思います。2002年から2004年にかけて『サッカー この日に何が起こったか』の(10月編)と(11月編)をまとめたことがあり、それを参考にしています。

 

★サッカー この日に何が起こったか

10月1日(1950年) 早慶サッカー定期戦はじまる

 学生スポーツの花形、早慶戦がサッカーでも行われるようになった。この日、明治神宮競技場で行われた1回目の戦いでは、慶応義塾大学が6-4で早稲田大学を破った。その後毎年1回定期戦が行われている。「早慶戦は弱い方が勝つ」といわれるが、対戦成績では、早稲田大学が37勝14敗18分けと慶応義塾大学を圧倒している(2018年現在)。

 早慶サッカーといえば、ナイターで行われることが有名である。1974年の第25回大会から1991年の第42回大会まで、政府の省エネルギー政策に協力したため、残念ながら薄暮のゲームで行われたが、それを除いたゲームは全てナイターで行われている。

 第1回大会も当然のことながら、当時としては珍しいことにナイターで行われた。明るさも今ほど鮮明ではなく、ボールも見にくい状況であったようである。それが、6-4というスコアにつながったと思われる。当日の様子が『早稲田大学ア式蹴球部75年史』に次のように書かれている。

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 当時進駐軍に専用化され日本人一般の人々が使えなかった「ナイルキニックスタジアム」(現国立競技場)において、関係の方々のご努力によって、日本で初めてのサッカーの夜間試合という形で早慶の定期戦の第1回戦が行なわれた。

 この夜は晴れて多少肌寒い感じであったが、ボールはエナメルで真白く塗ったのを用意して、よごれたらとりかえることにした。初めてのこととて両校関係者はもちろん、協会、他校関係者等約5,000人の観客が集まり、試合もシーソーゲームとなり観客をわかせた。

 実際に私たちは白く塗ったボールを今まで蹴ったこともないし、夜間照明も初めてであるし、とにかくやってみなければわからないという気持ちで一杯であった。実際に遠い人は瞬間的にとらえにくいし、球は光の当たり具合、影の形の出来具合によって、真っ直ぐに飛んでくるボールもまがってくるように見えるし、白く塗ってあるためと光量不足のため、球の回転が読めないときもあってかなりとまどった。従って、ゲームも落ち着いたドリブルもパスもなかなかできにくく、試合内容的には中盤のゲームの組み立てが少なくロングパスをゴール前で、というかなり荒れたゲームとなり、シーソーゲームとなった。終わってからの感じも肉体よりもかなり精神的に疲れたことを記憶している。

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 文中にある白く塗ったボールとは、ナイター用にエナメルが塗られていたボールを意味している。当時は、現在のような優れたキーパー手袋はなく、ゴールキーパーは素手でプレーすることが多かった。このエナメルボールの手に吸い付くような感覚は、私がそれに初めて触れた高校生のとき、とても気に入ったことを覚えている。 

 

10月2日(1971年) オリンピック連続出場たたれる。韓国に1-2

 私が、本格的にサッカーを始めたのは高等学校のサッカー部に入部してからである。しかし、遊びでは小学校の高学年からボールを蹴っていた。近所の5歳年上で都立小平高校サッカー部の選手だったお兄さんと一緒に、近くの小学校の校庭でサッカーをしたのがきっかけである。それから、当時のサッカーブームの影響も受けて、夢中になって草サッカーに興じるようになった。そのサッカーブームを作った大きな要因の1つが、東京、メキシコとオリンピック2大会連続での、日本サッカーチームの活躍である。

 1972年のミュンヘンオリンピックに3大会連続出場をかけて、アジア最終予選が韓国のソウルで行われた。参加したのは、日本、韓国、マレーシア、フィリピン、そして台湾の5カ国。総あたり1回戦のリーグ戦方式で上位1位のみが本大会出場ということであった。前評判では、日本と韓国の一騎打ちと予想されていたが、伏兵マレーシアに日本、韓国ともに敗れ、出場権を奪われてしまった。予選最終日のこの日、日本は宿命のライバル、韓国と対戦した。出場権という意味では、この試合は日程消化試合であったが、日韓戦といえば、常に白熱した内容となり、否が応でも盛り上がる。高校サッカー部の1年生であった私も、試合前からドキドキハラハラして期待に胸を躍らせていた。

 この日は土曜日であったと記憶している。キックオフは夕方であった。東伏見の早大グランドで早稲田実業との練習試合を終えて、あわてて帰宅したことを覚えている。しかし、開始時間までに家にたどり着けず、自宅最寄り駅近くの電気屋さんの店頭テレビで前半を観戦し、ハーフタイムの間に急いで帰宅し、後半戦を自宅で息を切らせながら観戦した。結果は、1―2で韓国の勝ち。韓国リードの後半、日本の快速ウイング杉山のセンタリングをデビューしたての永井が蹴りこんで同点としたこと、その瞬間スタジアム全体がシーンと静まりかえったこと、そして、韓国フォワード朴利天の強烈なシュートをGK横山が胸ではじき、こぼれダマを詰められてとどめを刺されたことなどが記憶に残っている。

 よほどの興奮をしたせいか、翌日から発熱し数日間学校を休んだことも恥ずかしい記憶として残っている。

 

 
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校長だより№18 熱い気持ち 2018年09月27日
 

 

2018年9月27日 校長 森田 勉

 

昨日昼休み、4~5人の生徒が友達とともに校長室を訪ねてきました。「体育祭のことなんですが。2回予行が中止になると、体育祭もできないと聞きましたが本当ですか? 何とかなりませんか?」という趣旨でした。すでに9月3日に保護者の皆様へ配信した『第30回 菊葉祭のご案内』で、「9月26日、9月27日に、体育祭予行が実施できない場合は、体育祭を中止します」とお知らせしてはありましたが、上記生徒たちにはきちんと伝わっていなかったようです。  

 

何とか体育祭を実施できないか、という熱い気持ちが伝わってきました。それは、保護者の皆様も同じでしょうし、私たち教職員も同じ感情を持っています。何とかしたいと。しかし、予行ができなければ大きな体育行事を敢行することには無理がありますし、事故が起きた場合は、当然予行実施の有無が、そして責任が問われてきます。それは、生徒の大事な命を預かっているから当然のことです。

学校行事予定は、昨年度中から時間をかけて練りに練ってできあがったものです。予定になかった行事(この場合「体育祭予行」)をどこかに強引に入れれば、何かが犠牲になります。雨天でもできる縮小予行を行えばいいのでは、という考え方もありますが、それでは予行の意義自体が問われてしまいます。何かを実践するときには本当に熱い気持ちが必要ですが、気持ちだけでは成り立たないこともあります。そのことを生徒たちにも理解してもらえたら嬉しいと思います。こうしたことも勉強のうちだと考えます。これからの長い人生、いろいろなことが起きるし、一見理不尽だと思うことにも出遭うことでしょう。そんなときに、その現象面だけを見ないで、そこにどのようなプロセスがあったのかに考えをめぐらせる大人に成長してもらえると嬉しいです。先の生徒たちも、丁寧に話をしたら分かってもらえました。

 

ところで、菊葉祭は文化祭と体育祭とを合わせての行事です。前段の文化祭では本当に多くの方に来校いただきました。前号でもお知らせしましたようにPTAの方々に大変お世話になりました。そのPTAの役員さんからの報告を受けました。22日と23日の二日間の保護者の皆様の来校者数は以下の通りだったということです。

22日(土):507世帯  23日(日):494世帯  合計:1,001世帯

 数字はのべ数だと思いますが、それにしても現状の在籍数が1,549名ですから、その数の何と多いことか、保護者の皆様の熱い気持ちが伝わってきます。有り難いことです。そこで、今回は、来校された保護者の皆様の何人かの声をPTA役員の方が寄せてくださいましたので、ご紹介しておきます。

 

・ 菊葉祭の日の子どもたちは、自分達自身も楽しんでいる様子が見られて嬉しい。その上来校者を楽しませようとしてくれている。

・ PTA本部受付にも、各ブースの宣伝をしに生徒たちが声をかけてくれます。

・ 小さい子ども連れの家族にも、出し物のお兄さんお姉さんが、とても親切にしてくれる。

・ お化け屋敷などの高校生対象の出し物以外が、盛り沢山なので毎年小さい子連れで、家族で楽しめる。

・ 模擬店の種類が、今年は豊富に感じた。

・ 同種類のお店なのに、発想の違いがはっきりしていて、両方購入した。おもしろい。

・ 二日間回っても食べ尽くせないくらいの種類があった事と、食堂の麺類も有り難かった。

・ 出し物中心に回る目的で来校する家族も、模擬店が混んでいて、並ぶ時間がないと金券は毎年使わずに帰っていたが、今年は売店でも金券が使用できたのは有り難い。

・ 広場でイベントをやっているので、回り疲れての休憩が、また楽しめた。

・ とても暑くて日除けのテントがあったらよかった。イベントを見たいけど売店の方(日陰)に退散するしかない時もあった。

・ 模擬店、出し物、展示、物作りなど、オープンからラストまで居ても、回りきれない企画で毎年楽しめる。

・ 他の文化祭にはあまり無い、物作り体験のブースは、とても楽しみにしている。

・ 作業時間がかかると他が回れない事を先生たちが考慮してくださっているのか、年々作業時間が短縮されて作業工程は少ないのに、素晴らしい物を完成させて貰える。

 

 来校されたみなさんの熱い気持ちが十分に伝わってくる素晴らしいコメントをありがとうございました。

そういえば、文化祭二日目の午後1時45分頃、高校2年に在校している生徒の、小学校5年生と2年生の弟くんたちが校長室のドアをノックして訪ねてきてくれました。「楽しい文化祭をありがとうございます」と。感激しました。気持ちが十分に伝わりました。こちらこそありがとうございます。

 
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校長だより№17 三位一体の開かれた教育方針 2018年09月25日
 

校長だより№17 三位一体の開かれた教育方針

2018年9月25日 校長 森田 勉

 

 9月22日(土)と23日(日)は、文化祭が行われました。この行事は、生徒会主催の最大の学校行事である菊葉祭(きくようさい)の一つです。もう一つは、10月5日(金)に予定されている体育祭です。

 文化祭は、毎年多くのお客さんが来校されますが、今年はとくに二日目は天気にも恵まれ、また連休の中日とあって、本当にキャンパス内は文字通り老若男女が賑わい活況を呈しました。生徒たちも来校された皆様に喜んでいただくために、出し物、展示、そして模擬店等を通して、誰もが愉快になるような見事なパフォーマンスを発揮していました。生徒たちの能力には本当に驚かされます。

 ところで、この文化祭は、本校PTAの保護者の皆様の協力なしでは、成り立ちません。PTAバザーコーナーでは、菊葉祭委員会の皆様が前日の準備の日も含めて、本当に八面六臂の大活躍をしてくださいました。加えて今年は、全体役員の全委員会(広報委員会、講演委員会、研修委員会、11支部父母の会委員会、菊葉祭委員会、卒業準備委員会、そして本部役員)が参加されたと聞いております。本当に有り難いことです。この場を借りて感謝申し上げます。

 

 本校では、「確かな学力と豊かな人間性に支えられた人間力の育成」を教育目標としています。そして、その目標実現のために、「生徒、保護者、教職員三位一体となった開かれた教育」を教育方針としています。毎年4月の入学宣誓式では、三者の代表がそれぞれ宣誓文に署名を行うという、創立初期から行われている伝統的な儀式もあります。教育目標達成のためには、生徒たちの主体的な取り組みと私たち教職員の積極的な働きかけが前提となりますが、何よりも保護者の皆様のご理解とご協力が欠かせません。保護者の皆様には、ぜひ、健全な批判者として、また、ときには教育の参画者として、これからもお力添えをいただきたいと思っています。

 その保護者の皆様が活躍されるのがPTA組織です。本校では入学と同時にすべての保護者の方に入会いただいています。その活躍ぶりを文化祭の他に以下に三つほどご紹介しておきましょう。

 

1)9月8日(土)には、午前11時から「PTA意見交換会」が行われました。今回は、

   全体役員会が開かれる日の午前中に、「生徒、保護者、教職員にとって魅力ある学

   園となるために」をテーマにして、保護者の方々から、校長、副校長、教頭、普通

   部と工業部部長に対して直にご要望や疑問点をぶつけていただき、私たちがそれに

   答えたり課題として持ち帰ったりしました。今年度で2年目に入りましたが、とても

   有意義な会です。24名の方にご参加いただきました。次回は、12月8日(土)開催

   の予定です。

2)10月28日(日)にはPTA研修委員会主催の「PTA校外研修」が行われます。今年

   は、『小田原めぐり』のバス旅行が計画されています。希望があればご家族も参加

   できる楽しい企画です。毎年大型バス2台から3台で出かけ、名所旧跡等を散策した

   り、美味しい料理に舌鼓を打ったりしながら、教職員と、普段できないお子さんに

   まつわる学校の話などができる和やかな会で、私も参加を楽しみにしています。

3)11月24日(土)には、PTA講演委員会主催の「講演会」が開催されます。今回

   は、本学園と教育連携を締結している東京工科大学学長の軽部征夫先生に「100歳

   まで健康を保つための科学」という演題で講演をお願いしています。例年は本校の

   保護者の皆様のみが聴講対象でしたが、今年は、広く近隣の皆様にもという役員の

   みなさんのご提案で、初の発信型の講演会となります(保護者の方で満席になった

   場合はご容赦願います)。この講演会は、もしかすると今後の本校のあり方につな

   がる企画になるかもしれないと本当に楽 しみにしています。

 
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校長だより№16 宇宙の日 2018年09月12日
 

校長だより№16 宇宙の日

2018年9月12日 校長 森田 勉

 

 今朝、NHKのテレビを見ていたら、今日は「宇宙の日」であることを知りました。少し調べてみると、1992年のこの日9月12日に、毛利衛さんが日本人宇宙飛行士として、はじめてスペースシャトルに搭乗して宇宙に飛びだった日であるそうです。あれからもう26年が過ぎたのか、そして、今の高校生は、もしかすると「スペースシャトル」のことさえも知らないかもしれないな、などなどと思いました。時は人を待たず、といいます。月日の過ぎるのは早く、好機は失われやすいという意味です。瞬間々々、毎日々々を大切にして充実して過ごしていきたいものです。

 ところで、9月12日は本校で高校2年生の学年集会が開かれました。テーマは「学校生活の約束事の再確認」でした。通常ですと、私はこのテーマでは二つの約束事について話をします。一つは、ルールブックに書かれている約束事です。規則や校則がこれらに当てはまります。これが破られると、学校でいうならば、健全な学校生活が成り立ちませんから、守っていくことは前提条件となります。したがって、これを守れない場合は罰則がついてきます。もう一つは、より高度の次元の話になります。すなわち、自分が自分自身に課す目標や決意などの約束事です。これは破っても罰せられません。しかし守ることができないと大きく成長できないのです。だから、「やり抜く力」「忍耐力」等が重要であるということになります。例年はこのようなことを中心に集会で生徒たちに話をします。

 今年は少し趣向を変えてみました。もう少しポジティブな見方といえばいいでしょうか。平たくいえば、「自分のよい点を見いだす反省をしよう」ということになります。私たちは、「反省」という言葉を耳にすると、どうしても「自分の良くなかった点を顧みて改善するように考えること」ととらえがちです。しかし、「反省」には「自分の言動や行動を振り返って、その良い点と悪い点を整理して次に活かすこと」というように、本来は良いことに関しても含まれています。そこで、今回は、その良い点や成長できた点を振り返ることを実践してみようという話しをしました。

 そのことを思いついたきっかけは、先週の朝日新聞朝刊の天声人語に載った記事でした。そこには、精神科医の宮地尚子さんの「いいこと日記」の紹介があり、見過ごしがちないいことを書きとどめる心地よさについて書かれていたのです。実践してみると、これが案外ポジティブな気持ちになれることを実感できました。

 自分の良さに気づいたり、自信を持てたり、いわゆる自己肯定感を持てることは楽しい生活に欠かせません。英語の格言にも、Positive attitude changes everything.(プラス思考はすべてを変える。)というものがあります。まさに生き生きとした生き方につながるものだと思います。みなさんも試してみてはいかがでしょうか?

 さて、冒頭書きましたように、今日は「宇宙の日」です。国立天文台のホームページを開いてみると「ほしぞら情報」のコーナーがあります。それによると、今週から来週にかけて、月が太陽系の惑星の近くを順次通り過ぎていく様子が見られるそうです。今日と明日は金星、14日は木星、17日は土星、そして20日に火星と渡り歩いていく様が観望できるようです。秋の夜長、星空を眺めて癒やされるのも悪くありません。ポジティブな生き方につながると思いますのでお勧めします。

 
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校長だより№15 学校事故と教師の責任 2018年09月03日
 

校長だより№15 学校事故と教師の責任

2018年9月3日 校長 森田 勉

 

 「時は人を待たず」と言いますが、本当に月日が過ぎるのは早く感じるものです。歳を重ねてきているので余計にそう感じるのかもしれません(苦笑)。9月1日に(土)に始業式を行い、2学期がいよいよスタートしました。

 私から全生徒に話した内容の骨子は以下の通りです。

1,「反省はするけど後悔はしない」といった健全な生き方には「振り返り」という

   ことが大事である。この振り返りを次のステップアップにつなげていくためには

 「学び」が欠 かせない。スピードスケート小平奈緒選手の言葉「学びはらせん

 階段」を紹介。

2,2学期は、「学び」に力を入れる大切な学期。読書の季節でもある。読書は人生

 を豊か にし、深い学びや読解力を身につけていく上で最も効果的である。読書に

 励んでほしい。

3,今学期は、生徒会主催の最大の学校行事である菊葉祭が行われる。全員で協力し

 て、協調性、創造性を発揮し成功させて達成感を持ち、成長できるようにしよう。

4,悔いの残らぬ生き方をするためには、しっかりとした目標を設定し、それを成し

 遂げよ うとする強い決意を持つことが大事である。決意は成否を左右するもので

 ある。固い決意 によって自信や勇気がわく。才能やできるできないの問題ではな

 く、勇気を持って一歩踏み出せる2学期にしていこう。

こうしたテーマを基調にして、充実した学期になるよう呼びかける内容で話しました。

 

 さて、今回の『校長だより』では、始業式前日に開催された教職員研修について触れておきたいと思います。本校では夏に2回、冬に1回の教職員研修を定期的に設けています。

8月31日の研修テーマは標記のように「学校事故と教師の責任」でした。講師を本校理事でもあり弁護士の盛太輔氏にお願いしました。時間は質疑も入れて1時間50分ほどでした。

内容は、項目をあげると以下の通りです。

1, 学校事故とは (1)学校事故とは (2)学校事故の責任範囲

2, 学校事故に対する法的責任 (1)民事責任(損害賠償) (2)刑事責任(刑罰)          

3, 学校事故に対する民事責任 (1)不法行為責任 (2)債務不履行責任 

  (3)不法行為責任の要件 (4)債務不履行責任の要件 (5)効果

4, 過失または注意義務違反とは (1)教員の注意義務とは (2)(結果)予見義務

  と結果回避義務 (3)注意義務(違反)の形

いくつかの判例を参考に、丁寧なお話をいただきました。

 私たちは「生徒の大切な生命を預かっている」ということをしっかりと確認できました。そして、私たちの教育活動にはどんなリスクがあるのかを理解しながらも、萎縮しないで活動するために常に万全の準備をし、丁寧な対応をしていくことの重要性を再認識できた貴重な機会でした。それと同時に、生徒に対して自分の命は自分で守ることの大切さや、生徒が主体的に事故防止に関心を持つことの大切さを感じました。それは、生徒一人ひとりが、不透明な未来社会の中で、力強く自分の力で自分の明るい未来を切り拓いていける力を本校で培ってほしいと考えているからです。

 
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校長だより№14 『生涯教育新聞』の記事より 2018年08月10日
 

校長だより№14 『生涯教育新聞』の記事より

2018年8月10日 校長 森田 勉

 

 夏休みもちょうど半分を過ぎました。生徒たちは自分の進路を切り拓くための勉強やクラブ活動等に励んでいます。甲子園での高校野球も始まり、いよいよ夏休みも後半に向かいます。残りの休みも充実したものにしてほしいと思っています。

 7月30日、31日の両日、サッカー部の夏合宿に参加して一泊してきました。私の高校時代よりもトレーニング内容はよく練られていて、ただがむしゃらに頑張る夏合宿とは違い、隔世の感を抱きました。そして、夕食後のミーティングも素晴らしかった。アクティブラーニングそのもので、部員参加型の中身に感心させられました。こうしたクラブ活動を3年間経験できることは、部員たちにとって本当に大きな財産になるな、と確信して帰ってきました。

 ところで、今日は、生涯学習新聞社が発行する『生涯教育新聞』の記事を掲載することにします。これから紹介する記事は未発行のものですが、新聞社のご理解を得て、『校長だより』に掲載することを快く許可してくださいました。本校を志望する中学生のみなさんにも参考になるものと思います。どうぞご一読ください。

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見出し)校長の夢 

  キャリア意識と国際性を併せ持つ人間を育てたい

  昭和第一学園高等学校 校長 森田 勉 さん 

本文)

 東京都立川市。JR立川駅からバスで約8分。人工芝とトリコロールカラーの校舎が生み出す開放感に溢れた空間が現れた。校長に着任して5年目。自身の体験と時代を読む目に照らし合わせて同校を率いる森田校長にお話を伺った。

-星空案内人の資格をお持ちとか?

 「サッカーと天体が趣味。産官学連携の三鷹ネットワーク大学で資格を取り、観望会で

  子どもたちに説明したり、望遠鏡の操作を教えたりしています」

-どういう学校でどんな生徒さんが多い?

 「社会の第一線で活躍できる人材育成を建学の精神に1940年に工業高校として創立。

  昭和に入り、現在の校名に変え、普通科を創設。共学化もしました。生徒は挨拶を

  きちんとする素直な子が多い。近隣中学出身の子が多く、地元に密着しています。

  部活動も魅力。高校ではあまりないライフセービング部もありますしね」

-最近感じることは?

 「いい感じで“進化”しています。当初は目標文化が薄い印象がありました。プランを

  立て組織的に行動・総括し、経験や教訓を得て新たな行動を起こす「Plan Do

  Check Action」を教員が意識したら行事の質が高まるなど”進化“が見られるように。

  生徒たちはいい取り組みや働きかけをするとどんどん吸収します。中学時代は自分に

  自信がなかった子にも目覚めて伸びていって貰いたいと思っています」

-目標がわかると伸びる。

 「人間は目標ができると意欲的になります。私自身が高校、大学時代に人生目標を設定

  しなかったことを後悔しています。そうならないようにキャリア意識を確立して貰い

  たい。そのためにキャリア相談室も設けました。生き方をしっかりと確立していくこ

  とは大事です。第二の建学の精神である「SDGプロフェッショナルポリシー」では主

  体的、持続的に学び、考え、創造し、行動できる力の育成を目指したいと思います。

  また語学研修、短期留学などで国際体験を積み、国際性を身につけて貰いたい。異文

  化体験で多様な文化を受け入れ、それを咀嚼することは人間を大きくしてくれます。

  『いつでもどこでもしっかり学んで切り拓いていく力』を育てる。そんな伝統と雰囲

  気に満ち溢れた学校にしたいですね」

  https://www.sdg.ed.jp/

 
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校長だより№13 『夏休みを迎えるにあたって』より 2018年07月23日
 

校長だより№13 『夏休みを迎えるにあたって』より

2018年7月20日 校長 森田 勉

 

 本日、1学期の終業式を迎えました。大過なくこの日を迎えられたことは有り難いことであると思います。これも、ご協力いただいている皆様方のおかげであると衷心より感謝しています。

 しかし、学校の外に目を転じてみますと、2週間前から先週にかけて、西日本で未曾有の記録的な集中豪雨により200名以上の方が亡くなられました。この場を借りて、謹んでお悔やみ申し上げます。また、被災された方々には心よりお見舞い申し上げるとともに、被災地の早期の復興を願うばかりです。

 また、今夏は猛暑が続いており、昨日も都内の高校で多数の生徒が熱中症で救急搬送されました。明日からの夏休み、生徒諸君には学習やクラブ活動などにおいて、こまめな休憩や水分補給に留意して、無理をしないように十分に気をつけてください。

 さて、学校では、長期休暇を迎えるにあたり、『〇〇休みを迎えるにあたって』というプリントを終業式の日に配っています。本日配布した『夏休みを迎えるにあたって』内の校長挨拶文を以下に貼り付けておきますので、ご覧ください。

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夏休みを迎えるにあたって

 今学期、学校全体を震撼させるような大きな事故や事件もなく終業式の日を迎えることができました。これは、生徒諸君の、自分の高校生活を充実させようという強い向上意欲のあらわれであると高く評価しています。今日は、この1学期間を振り返り、成長できた部分とやり残した部分をしっかりと整理をして、さらなる飛躍のためにそれを今後の礎にしてほしいと思っています。

 諸君も知っての通り、今年度は学校の新しい行事として「自学自習推進デー」と「学びの振り返りデー」を設けました。これらの日は、学習を中心とした基本的生活習慣の確立のきっかけにしてほしいという願いから設定したものです。諸君は、うまく活用できたでしょうか。そして、今日7月20日から25日までの期間を「学びウィーク」として、これもまた今年度から新たに位置づけました。長期の休みでは生活が不規則になりがちです。そこで、夏休みの入口のところで、しっかりと目標設定して、計画的に学習を進めて日々過ごしてほしいと思ったからです。ぜひこの意を汲んで、学習習慣を築くきっかけにしてもらい、明日から始まる42日間の長い夏休みを充実した期間にして下さい。

 さて、一学期最後の6月から7月にかけて、ロシアでサッカーのワールドカップが開催されました。強豪ベルギーとのベストエイトをかけた試合で、日本代表チームは激闘を演じ世界から大絶賛されました。この試合を見て勇気と感動、そして幸福感を持った人も少なくないでしょう。私は、この試合に出場した、香川、本田、吉田、長友らに注目していました。彼らは、2008年北京オリンピックのサッカー代表選手でした。そして、そのオリンピックで予選リーグを3戦全敗したことから、彼らは“谷底世代”と呼ばれ、屈辱的とも言える経験をしたのです。しかし、その悔しさをバネに、それぞれが努力を積み重ね、大きく飛躍していき、日本サッカーを支える名選手となりました。彼らを中心とした日本代表チームは、2011年のアジアカップで優勝し、自他共に認める最強チームになりました。“優勝”を豪語して臨んだ2014年ブラジル・ワールドカップでは、2敗1分けと、また苦杯をなめたのでした。そして、その経験を活かして、今回の活躍につなげたのです。このように、彼らは、まさに「七転び八起き」を繰り返し、多くの失敗から学び、それを糧にし、新たな目標を設定して創意工夫や努力を積み重ね、成果を勝ち取ることができました。こうした経緯から、彼らは「リバウンド・メンタリティ」という能力を持っていると言われています。日本語で言えば、それは「挫折回復力」と言えるでしょう。

 この「挫折回復力」は、諸君にもぜひ身につけてほしい能力のうちのひとつです。現在から未来にかけて、人工知能による技術革新で、産業革命以来250年ぶりに人類史が変わる時代がやってきていると言われています。こうした先行き不透明な変化の激しい社会では、想定外のことがたびたび起きたり、複雑な状況下で板挟みにあうことが多かったりと、問題解決に失敗して苦労し、時には心が折れそうになることも多々あるでしょう。そうしたときに、タフな心を持ち、一度や二度挫折しても、そのたびに自力で、あるいは仲間とともに立ち上がろうとし、そして実際に立ち上がり、復活できるという能力、すなわち「挫折回復力」が生きてきます。これは、失敗しても成功するまで粘り強く続けることができる能力と読み替えてもいいでしょう。

 こうした力は、この高校時代に、失敗したときに「どうすれば立ち直れるか?」の方法を学び、実践して、克服していく経験を繰り返すことによって、自ずと身についてくるものです。その意味では、夏休みは絶好の機会でもあります。今学期を振り返って、うまくいかなかったことがあれば、その原因を探り、挽回できるように具体的に行動・実践してみましょう。また、ひとつの目標を設定して、それを成し遂げるために地道な努力を積み重ねていくこともこうした能力を身につけることにつながります。いずれにしても、チャレンジングな姿勢で夏休みを過ごし、各自が大きく成長してほしいと願っています。2学期に、また一段とたくましくなった諸君と再会できることを楽しみにしています。

 

 
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校長だより№12 日本、ベスト8ならずとも 2018年07月06日
 

校長だより№12 日本、ベスト8ならずとも

2018年7月6日 校長 森田 勉

 「勝負は下駄を履くまで分からない」と、よくいわれますが、まさしくその言葉通りの劇的幕切れとなりました。といいますか、なってしまいました。試合終了のホイッスルの瞬間は、赤く染まったベルギーのサポーター陣は感激のルツボと化し、ジャパン・ブルーの我がサポーター陣は奈落の底に突き落とされたかのようでした。勝負に喜びと悲しみはつきものですが、天国と地獄、明と暗がこれほどはっきりと表れた試合も滅多にないでしょう。勝ち抜き戦の宿命で、ベスト8を掛けた1回きりの真剣勝負、しかも、アディショナルタイムの残り本当にわずかのところで、日本の最後のコーナーキックと思われた直後の、ベルギーの見事な高速カウンターからの逆転ゴール。この展開では致し方ないことかもしれません。

 「たら」「れば」をあげたらきりがありませんが、ベルギーの“事故のような”1点目、フワーっとしたボールが入らなかったら、2点目のアザールが切り返してのまさかの(利き足でない)左足でのセンタリングがなければ、そして、最後の失点を生んだコーナーキック直前のフリーキックを本田が決めていれば、、、。日本が勝っていたかもしれない紙一重の戦いでした。試合に負けるということは本当に悔しいことです。だから勝負は勝たなくてはいけません。もう少し厳密にいえば、勝つために不断の努力を積み重ね、真剣勝負に全身全霊で打ち込まなければなりません。そうでないと、試合から学ぶものは何もないからです。そして見る者の感動を呼ぶこともないでしょう。この試合が劇的な終わり方をしたのも、両チームの選手が一生懸命にこの試合に魂を込めて闘ったからであるといえます。

 闘い直後の両国イレブンはとても爽やかでした。スタンドはまだまだ歓喜と失意が入り交じっていたようですが、切り替わるテレビ画面の中で、ベルギーの監督がホッとしたような表情で、悔しさを漂わせながらもやりきった感が出ていた西野監督に歩み寄り、お互いの健闘をたたえ合っていました。あとの報道で知ったのですが、このとき、ピッチに横たわっていた香川にベルギーのエースであるルカクが手を差し伸べて引き起こし、そして、ベルギーのコーチであるアンリ(元フランスの名選手)が吉田を慰めるように抱きしめていたそうです。両監督の言葉はもちろん聞こえませんでしたが、「ナイスファイト」と闘い終えた相手に自分達の気持を伝えた素晴らしい光景でした。両チームとも真剣にサッカーに打ち込んでいるプロフェッショナルだな、と感心しました。こうしたシーンに思わず目頭が熱くなりました。

 そして、何といってもよかったのが、試合終了後のスタジアム全体の快い雰囲気が垣間見えたことでした。勝者にありがちな驕った態度も、敗者にありがちな悔しまぎれの捨て鉢な行いも全く感じませんでした。勝者と敗者、両者を称えるという雰囲気に満ちあふれていた気がします。もちろん、私は現地で観戦していたわけではありませんので、定かではありません。もしかしたら、それは私の思いこみかもしれません。しかし、翌日の世界のジャーリストやサッカー解説者のこのゲームに対する称賛の声の多さを知れば、まんざら間違いでもなかったと思います。時間が経過すればするほど、負けた悔しさよりも爽やかな感動の方が私の心を占めていました。早朝3時からの試合で、しかも負け試合となれば、喪失感に苛まれることが多いのですが、このときは違いました。あきらかに満足感に浸っていたのです。

 オリンピック発祥の地、ギリシャでは、「優秀」のことを「ディア・フォロン」という言葉で表現するそうです。このギリシャ語の本来の意味は、「最後までやり遂げる」という意味があるといいます。この日本vs.ベルギーの試合は、勝ち負けという結果に差は出たものの、本当に最後まで両チームがひたむきに勝利を目指してやりきった試合であったと思います。サポーターも全力で応援していました。選手もサポーターも「優秀」であったということです。

 こういう試合を見ることができた私は大きな幸福感を持つことができましたし、感謝の気持ちも抱きました。おそらく、次代を担う若い選手たち、少年たち、そして幼い子どもたちも勇気や感動をもらえたことでしょう。ますます、日本のサッカーが発展していくことを予感させてくれます。早くも、4年後のワールドカップが楽しみになってきました。

 その後、日本代表チームが会場を後にする際、ロッカールームをきれいに清掃して去ったというニュースが入ってきて、これも評判になっています。サポーターのゴミ拾いといい、最後までやりきる「優秀」の手本ですね。祝祭的な気分に輪をかけて本当に愉快な気持ちになりました。

 
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校長だより№11  45年前の今日 2018年06月30日
 

2018年6月30日 校長 森田 勉

 

 今日は私の63回目の誕生日です。ちょうど45年前、高校3年の時、18才を迎えたこの日も6月30日は土曜日でした。なんでそこまで覚えているの?と不思議に思っている方もいることでしょう。今日は、今日だけはプチ自慢話をさせていただきます。

 実は、私が生まれて初めて(最初にして最後に)国立競技場でサッカーの試合を経験した日が1973年6月30日の土曜日だったのです。現在は2020年東京オリンピック・パラリンピックのために新国立競技場が建設中です。前回の1964年の東京オリンピックのために造られた、今は存在しない国立競技場でプレーしたのです。

 第24回早慶サッカー定期戦の前座試合で行われた付属高校どうしの試合で出場しました。国立競技場といえば、サッカーのメキシコオリンピック予選(1967年10月)が行われたところですし、私が高校2年次(1972年5月)には、あの“サッカーの神様”と呼ばれたブラジルのペレがサントスFCの一員として日本代表と試合をして見事な2ゴールを決めたところでもありました。少し前までは、高校サッカー選手権の準決勝と決勝が行われた場所でもありましたので、全国高校サッカー選手の憧れの地でもあったわけです。そのあこがれのフィールドにプレーヤーとして立つことができた感動を、今でも忘れることはできないでいます。

 すり鉢状の観客席をピッチから見上げると圧倒されるような感覚になります。私はゴールキーパーでした。反対側のゴール方向を見ると、ハーフウェイラインあたりが盛り上がり、相手のゴールキーパーの足もとが隠れるような感じのわずかな傾斜がついていた憶えがあります。ファインプレーをすると、ちょっと遅れたタイミングで観客の歓声が沸き、そして拍手が聞こえてきます。当時、高校生が天然芝で試合ができることはほとんどありませんでしたから、スパイクの底についた芝の緑色が貴重な宝物にもなりました。

 試合は、終了間際にミドルシュートを決められて0-1で負けてしまいました。それまでは結構大活躍していたのです。証拠が残っていませんので、何とでも言えるのですが(笑)。

 期末試験を翌々日に控えていたり、母方の祖母が危篤状況であったりと良いコンディションでは臨めませんでしたが、それなりに悔いの残らぬ試合ができて一種の達成感に浸ることができました。期末試験の勉強も試合準備と平行して行っていて、結構良い成績もとりました。大試合を控え、効率よく勉強に集中できたからでしょう。これも証拠がありませんね(笑)。

 試合を終え、大学生の本番の早慶戦を観戦してから帰宅しました。少し日が経ってから、(今は亡き)父が内緒で観に行っていたことを知って驚きました。そして「良くやっていた」と言ってくれていたそうです。今の高校生からは想像もできないかもしれませんが、息子の試合を観に行く親は、当時はほとんどいませんでした。それに、父親と高校生の男の子が日常的に気楽に言葉を交わすことも敬遠される雰囲気がありました。昭和の時代です。今振り返ると、もう少し話をしておけば良かったなと後悔しています。コミュニケーションが大切であると、いつも生徒に言っているのは、自分自身が満足にできなかったことを、今の生徒に経験してほしくないからであると言えなくもありません。

 何十年経っても忘れない、青春の一コマを恥ずかしながらご披露させていただきました。

 
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