昭和第一学園高等学校

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校長だより№28 ほしぞら情報 2018年11月15日
 

校長だより№28 ほしぞら情報

 

2018年11月15日 校長 森田 勉

 

 先週の7日は暦の上では立冬でした。その割には暖かい日が続きましたが、やはり朝晩は冷え込む日が増えてきました。それと時を同じくして、夜空が随分とすっきりしてきました。星々が綺麗に見える季節がやってきて嬉しく感じます。この時期、早朝夜明け前の南の空には「オリオン座」や「冬の大三角」などの冬の星座が見事に光り輝いています。一度早起きしてご覧になるとその日の気分も爽快になると思います。

 ところで、国立天文台では、毎月の「ほしぞら情報」が天文台のHPで紹介されています。今月は、「秋のひとつ星を見よう」と「月が土星、火星に接近」というトピックが紹介されています。前者の星とは、みなみの魚座のフォーマルハウトのことです。今井美樹さんが歌った「私は今、南のひとつ星に、、、」のひとつ星がまさにこの星のことだといいます。後者は、もうすぐ見えなくなる土星と黄色に輝く火星に月が近づいて見える様子を紹介しています。火星の方が高度も高く、月齢8.5の月がそばに輝く姿が綺麗に見えるでしょう。

 国立天文台では、天文台が単独で著作権を持つ著作物は、教育利用に関しては事前の許諾なく利用することができるということですので、HPに載っていた絵を以下に掲載しておきますね。ぜひ一度閲覧して、それを参考に夜空を眺めてほしいと思います。

 なお、蛇足ながら、私は、「星空案内人(星のソムリエみたか)」の資格(2011年3月NPO法人三鷹ネットワーク大学推進機構にて取得)を持っています。また別の機会にその話や、今回少し出てきた冬の星座や月齢などについての話をご披露したいと思っています。

 

 

★サッカー この日に何が起こったか

11月15日(1998年) 法政一高、錦城高校に競り勝つ

 きわめて私事の話で申しわけない。私が本校赴任前に勤めていた法政一高(現法政大高)サッカー部にまつわる話を紹介しておこう。

 法政一高には、私が教員になった1980年までサッカー部がなかった。しかし、サッカー部を創りたいという生徒の要求は非常に強く、そして多くあった。多少サッカー経験のある私が教員になったことで、その動きに勢いがつき、その年の途中から同好会としてスタートしたのがはじまりである。翌年、高体連に加盟し、公式戦にも出られるようになった。最初のころは、どのチームと対戦しても大敗の連続であったことを憶えている。練習場所もなく、近所の善福寺公園や井の頭公園の空き地で遠慮しながらボールを蹴るという厳しい環境でもあった。

 しかし、「継続は力なり」である。徐々にチームは力をつけていく。それと同時に学校全体の理解も増し、グランドや校内施設での練習も可能になってきた。1985年ぐらいから、地区予選の決勝までは進出できるようになってきた。初の都大会出場は1994年のインターハイと選手権であった。その後、また都大会から遠ざかり、久しぶりに訪れたチャンスが、この1998年の新人戦であった。

 1回戦は11月1日の都立拝島高校戦で2-0と快勝。2回戦は3日の都立武蔵野北高校と4-0で圧勝。地区予選準決勝がこの日の錦城高校戦であった。

 このブロックのチームの中で1、2の実力あるチームで、ひとつの山場であった。フィジカルの強い錦城高校に対して、1対1の粘り強い守備からボールを奪って逆襲し、時間をかけないでフィニッシュまでもっていく攻撃が見事に実を結び、この新人戦の大会でベストゲームといえるほどの内容で2-1と快勝し、決勝戦に駒を進めることができた。

 錦城高校は今でも昭和第一学園高校のライバルと言えるほどの強いチームである。

 

11月16日(1991年) 第1回女子ワールドカップはじまる

 第1回世界女子世界選手権(女子ワールドカップ)が、この日から11月30日まで中国の広州市を中心に5都市、6会場で開催された。

 日本は、予選リーグBグループで、アメリカ、スウェーデン、ブラジルと対戦、全敗で決勝トーナメント進出はならなかった。優勝はアメリカ、準優勝はノルウェーであった。

 その後の女子ワールドカップの記録は以下のとおりである。

(大会回数)(開催年)(開催国)    (優勝)   (日本チームの成績)

 第1回      1991年  中国            アメリカ   12位

 第2回    1995年  スウェーデン  ノルウェー  ベスト8

 第3回    1999年  アメリカ      アメリカ   予選リーグ敗退

 第4回    2003年  アメリカ      ドイツ    予選リーグ敗退

 第5回    2007年    中国      中国         予選リーグ敗退

 第6回      2011年    ドイツ       日本     優勝

 第7回      2015年    カナダ       アメリカ     準優勝 

 第8回      2019年    フランス  

 2011年の日本代表(なでしこジャパン)の優勝は記憶に新しい。優勝候補のアメリカを相手に2度のビハインドにも粘り強く戦い、2-2の同点で迎えたPK戦を3-1で制し、見事初優勝を飾った。この年の3月11日発生した東日本大震災で傷ついた多くの人々に勇気をもたらす成果であった。 

 

11月17日(1968年) 空前のサッカーブーム到来

 この月の1ヶ月前(10月)に行われたメキシコ・オリンピックで、日本が堂々の銅メダルを獲得した。その影響で、空前の一大サッカーブームが起こったのである。この日の日本サッカーリーグ、三菱重工対ヤンマーディーゼル戦では、なんと国立競技場に40,000人の観客が集まりリーグ新記録を打ち立てた(1989年のダブルヘッダー読売vs.三菱戦、日産vs.ヤマハ戦での41,000人まで破られなかった)-当時の観客動員の発表の仕方はプロ野球にならっていたようで、何百何十何人までは確認できない。Jリーグ開幕以降、日本サッカー界では、正確な有料入場者数を確認・発表している。

 ところで、なぜこの試合に、当時としては珍しく人が集まったかといえば、2大スター選手の競演があったからである。それは、三菱の杉山とヤンマーの釜本である。先に述べたメキシコ・オリンピックの好成績も、この2人の大活躍があったから実現したといっていい。左ウィングの杉山とストライカー釜本の2人のコンビによる攻撃力は抜群であった。この日の試合は釜本が同点シュートを決め1-1で引き分けた。

 なお、この年、リーグを制したのは、東洋工業であった。

 

11月18日(1973年) 日本サッカーリーグ 日立vs藤和戦(生観戦)

 私が高校3年生のときに観戦した試合である。このころは、よく日本サッカーリーグの試合を観に行ったものである。Jリーグの盛んな現代に、もし私が高校生だったら大変であっただろう(笑)。しかし、生徒たちにも、もっと多くの試合を観戦してほしいものである。身近によい手本がたくさんあり、それを見るチャンスは私の高校時代の比ではない。自分のポジションと同じ選手を1試合見続けていても勉強になる。ぜひ活用してほしい。

 ところで、この試合は、日本リーグ第16節の試合で、国立競技場で行われた。当時の日本リーグ戦は第18節まであった。首位を行く三菱重工を追う2位日立製作所はこの試合に勝って望みをつなぎたいところであったが、0-1で藤和不動産に敗れてしまった。この日同時刻に西京極で行われた三菱vs.ヤンマー戦で三菱重工が引き分けたために、最終節を待たずに三菱の優勝が決まった。

 この日のゲームには、今は、テレビ解説者でおなじみのセルジオ越後が藤和のMFとして出場していた。現在の半分ぐらいしかない(?)体形で、さすが元ブラジル代表というプレーを随所に見せていたことを憶えている。今の高校生には信じられないだろうが。  

 

11月19日(1978年) 日本代表vsソ連代表(生観戦)

 私は、当時、生物物理系の大学院2年生で「ゾウリムシ」を研究していた。ちょうどこの日、横浜国立大学で行われた「日本原生動物学会」での発表を午前中に終え、急いで国立競技場に駆けつけたことをよく憶えている。

 お目当ては、オレグ・ブロヒンを擁するソ連代表であった。それというのも、この当時の日本サッカーは「冬の時代」と称され、日本代表は国際試合に出ると負け、国内リーグは中盤での攻防に終始しすぎ、ゴールの魅力が感じられないゲームばかりが目立つ、という具合で、面白みを感じなかったからである。唯一のお目当ては、有名チーム(選手)の来日による代表との国際試合ぐらいであった。

 1960年代以降、ソ連から多くのチームが来日し、日本チームも何度もソ連に遠征しているが、代表チームとの対戦はこの日がはじめてであった。このときのソ連代表チームは、ワールドカップ・アルゼンチン大会の予選で敗れ、大幅に若返っていた。先にあげたオレグ・ブロヒン(ウクライナ人)やテクニシャンのキピアーニ(グルジア人)など、ロシア人以外のほうが多いチームでバランスが取れていた。

 試合は前半4分に日本が先制する。MF藤島からの右クロスをFW碓井が折り返したところにFW藤口が詰めてゴールを奪う。しかし、前半のうちに3点を取られ、結局1-4で完敗した。お目当てのブロヒンは怪我で出場せず、私はがっかりして試合後の帰宅への足取りも重かった。

 後日行われた第2戦、第3戦も1-4、0-3で日本の完敗に終わっている。日本は、この年12月から行われたバンコク・アジア大会の前哨戦としてこのシリーズを位置づけていたが、何ら実りあるものを感じ取ることができなかった。案の定、アジア大会では、1次リーグでクウェートと韓国に敗れ、2大会連続で1次リーグ敗退という無残な結果に終わった。

 この時期は、日本サッカー最悪の時期であったといっても過言ではない。現在の日本サッカー隆盛の時代から見ると嘘のように思われるかもしれない。この日の観客も27,000人である。いくら親善試合だからといって代表チーム同士の試合でこの数字であることからも、当時の状態を見て取ることができるだろう。しかし、現在の盛況も現状に甘んじていれば、すぐに凋落してしまうものである。油断しないように、日本サッカーを底辺から支える1人として注意深く見守っていきたいと思っている。

 

11月19日(1999年) 第5回アジアスーパーカップを磐田が制す

 アジアクラブ選手権(アジア各国のリーグを制したクラブチームで競う大会)の勝者と、アジアカップウィナーズカップ(各国最高位のカップ戦を制したチームで競う大会)の勝者間で争う戦いであり、まさしくアジアナンバーワンのクラブチームを決めるものといってよい。2002年のシーズンからアジアチャンピオンズリーグがはじまったために、この大会も第8回をもって幕を閉じた。

 Jリーグのジュビロ磐田が、この日、第5回大会で、サウジアラビアのアルイテハドと敵地で戦い、1-2で敗れたが、アウエィ得点2倍方式のため(第1戦はホームで1-0の勝利)、初の優勝を飾った。

 この結果、ジュビロ磐田は第2回FIFAクラブ世界選手権の出場権を獲得した。しかし、財政的な面がネックとなり、この世界選手権は2003年まで延期となってしまい、ジュビロ磐田の世界挑戦は残念ながら実現しないままでいる。

 

11月20日(2002年) ジーコ・ジャパン、アルゼンチンに敗れる

 ジーコ・ジャパン第2戦。ジーコ監督は母親が直前になくなり帰国中であったが、強豪アルゼンチンが相手とあって、埼玉スタジアムには61,816人の観客が集まった。日本代表の海外組みはFW鈴木とMF中村だけであったが、前半はいい攻撃も見られ、面白い展開の試合であった。しかし、後半1分と2分に立て続けに2失点を喫し敗れた。

 このときのメンバーは、GK楢崎 DF秋田、名良橋(→山田)、中西、松田 MF福西、中村(→三都主)、小笠原(→遠藤)、中田浩 FW鈴木(→中山)、高原である。

システムが4:4:2からJリーグで多用されている3:5:2に変わったこと、ディフェンダーが若手に切りかわったことを除くとそれまでの代表メンバーと大きな違いはない。中田英、稲本、小野などが不在であることに変わりはないからだ。ジーコ・ジャパンがスタートした2002年10月16日のジャマイカ戦では、海外組の4人が中盤を占め話題を呼んだ。

 ジーコの前任者であるフランス人のトルシエは、徹底して自分の決めた戦術に選手を当てはめる戦い方をした。個性よりも組織を重んじる日本人の国民性がマッチし、ワールドカップ予選リーグ突破という好成績を残すことができた。しかし、同じワールドカップの決勝トーナメント1回戦で、トルコに1点を奪われたトルシエ・ジャパンは、相手を慌てさせるような予想外の攻撃を展開することができずに敗れてしまった。最初から最後まで決められた戦術に縛られ、意外性あるプレーを見せる選手がいなかった。組織サッカーを重視したあまり、約束事を破ってでも勝利に邁進する姿勢は生まれなかったのである。これは、トルシエの采配の問題もあるが、日本サッカーの底流にある根本的な問題が露呈したと見ることもできる。

サッカーは、試合がはじまってしまえば、監督やコーチの指示をひとつひとつあおいでプレーすることはできない。個々の局面で、個人個人の選手が最もよいプレーを選択する戦術眼とイマジネーションを有していなければならないのだ。長く日本に滞在し、日本サッカーに造詣の深いジーコは、日本選手の弱点に気づいていた。世界のサッカー一流国と伍して戦うには、戦術どおりに試合を運ぶだけでなく、個々の選手の才能を存分に発揮し、場面々々で豊かなイマジネーションを発揮し、ピンチを切り抜け、チャンスをものしなくてはならないということである。

 この日の試合以降2,004年の春ごろまで、ジーコ・ジャパンの評価はあまり高くなかった。結果がついてこなかったことが一番の原因であるが、選手の自主性に任せる姿が放任に映ったからであろう。しかし、日本サッカーが世界の強豪国と呼ばれるようになるには、いつしかジーコのねらいを具現化できるチームにならなくてはならない。2004年8月7日、ジーコ・ジャパンは、アジア・カップで優勝した。国際試合で引き分けをはさみ10連勝の記録もつくった。ようやくジーコイズムが浸透してきた成果であった。しかし、2006年のドイツワールドカップでは、予選リーグで敗退してしまった。日本サッカーが世界と伍して戦っていくにはもう少し時間が必要であることを痛感したものである。

 

11月21日(2002年) 高円宮殿下薨去

 日本サッカー協会の名誉総裁を務められ、日韓ワールドカップ開会式にも参列された、高円宮憲仁親王が、この日47才で薨去された。スポーツ好きの殿下らしく、最期もスカッシュの最中にお倒れになったということである。

 高円宮杯とは、各種競技大会の優勝者に高円宮より贈られる優勝杯の名称である。それが転じて、その名前を冠する競技大会の名称をさすのが慣習となっている。サッカーで「高円宮杯」といえば、「全日本ユースサッカー選手権大会」のことを指している。

殿下が、妃殿下とともに日本代表チームの試合の際、選手を一人ひとり励ます姿が記憶に残っている。「サッカーの宮様」と称されるとおり、サッカーをこよなく愛されているご様子であった。殿下亡きあと、妃殿下の久子様が名誉総裁職を継いでいる。

 

11月22日(1998年) 法政一高、新人戦で初優勝

 11月15の話の後日談である。東京都の高等学校新人戦地区予選準決勝で、強豪の錦城高校を破り勢いに乗る法政一高サッカー部は、この日、都立小金井北高校との決勝戦を迎えた。この年の小金井北高校はキャプテンの選手(中盤とフォワードをこなす好選手であった)を中心によくまとまったチームであった。試合内容は非常に拮抗したものであり、2-1の逆転し、見事新人戦で優勝を飾ったのである。私にとってとても思い出深い試合であったので、僭越ながら紹介させていただいた。

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 どんな大会でも優勝の味は格別です。昭和第一学園高等学校サッカー部も優勝を目指して頑張ってほしいと願っています。私も微力ながらお手伝いしていきます。

 
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